戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

壬生 みぶ

 中世に「山県表」と呼ばれた地域の中心地の一つ。戦国期までは国人領主壬生氏の本拠だったとみられるが、壬生氏没落後は毛利氏の支配下となった。流通の要地だったらしく、毛利氏は壬生市に目代や公用の輸送業者をおいていた。

国人領主壬生氏

 中世、壬生を拠点としていた武士に壬生氏がいる。

 南北朝期の康永二年(1343)十二月、室町幕府引付頭人から指示を受けている壬生六郎三郎入道(道忠) という人物が確認できる(「長門内藤文書」)。壬生道忠は観応元年(1350)六月には足利直冬に味方して山形又六為継とともに猿喰山城に籠城。しかし武田氏信の攻撃を受けて七月十一日には城が陥落した(「吉川家文書」1052)。

 室町期、壬生氏は山県郡主でもあった武田氏の与党となっていた。明応八年(1499)三月には武田元繁(若狭武田氏の安芸国代官)が毛利弘元安芸国吉田を本拠とする国人領主)に発給した文書に、香川質景・白井元胤・熊谷膳直・今田国頼らとともに壬生国泰が署判している(「毛利家文書」166)。

 永正十二年(1515)に武田元繁大内義興*1から離反。壬生の西方にあった武田方の有田城(有田は「山県表」の中心の一つ)が吉川氏・毛利氏に攻略されたことで、同年六月一日に壬生元泰毛利興元に降伏した。

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毛利氏の進出

 しかし壬生を含む山県表は、以後も武田氏・石見高橋氏・吉川氏・毛利氏らによる抗争が続く。享禄三年(1530)頃、高橋氏が滅亡。同年十二月、毛利氏は大内義隆から「山県」を含む高橋氏の遺領の知行が認められる(「毛利家文書」257)。これにより、壬生を含む山県表に毛利氏が本格的に進出してくることになる。

 ただし天文八年(1539)、今度は尼子氏と連携する吉川氏が毛利氏勢力下の壬生城を攻めて山県表を占拠(「毛利家文書」252)。天文八年九月頃、毛利氏は山県表の奪還を目指して出兵したが、吉川氏によって撃退されている(「吉川家文書」203)。

 結局、天文十年(1541)正月に毛利氏の本拠である吉田郡山城を攻めていた尼子勢が敗走したことで、吉川氏も大内方に転向*2。毛利氏は山県の所領を回復し、さらにそれまで吉川氏の支配下にあった山県郡の一部も獲得した。

毛利氏の支配

 毛利氏が壬生の地を支配していたことは、家臣たちに発給された宛行状からも分かる。たとえば天文二十年(1551)二月、毛利元就・隆元父子は平佐千代法師(就之)に対し、「壬生之内城下ちり田一町五段」を含む給地を与えている(『萩藩閥閲録』巻56)。「壬生之内城下ちり田」は、壬生城の麓の「ちり田」すなわち名に編成されていない散田の意味である可能性があるという。なお平佐就之が天正四年(1576)二月に毛利輝元から安堵された所領の中には「壬生ノ内浜こなし名」がみえる(『萩藩閥閲録』巻59)。

 天文二十年(1551)十一月には、壬生八幡宮の社殿造営が毛利元就を大檀那として行われた。この時の棟札には「当職」井上豊前守、社司勘解由丞(井上光竣)、願主井上彦次郎、大工又五郎らの名も記されている。このうち井上彦次郎は毛利氏近習の一人だったことが他の史料から確認できる(「毛利家文書」626)。

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 毛利氏は壬生新宮の造営も行った。永禄三年(1560)十一月には毛利元就・隆元が大檀那となって宝殿の造営が行われ*3、元亀四年(1573)九月には毛利輝元が大檀那となり、大願主を井上豊前守として社殿造営が行われている*4

木材の供給地

 壬生周辺は毛利氏にとって木材の供給地の一つだった。天正年間、毛利輝元は壬生周辺に領地があったと思しき山県又五郎元光*5に対し、満願寺郡山城内にあった真言宗寺院)の造営用木材として元光領内の檜二、三本の供出を求めている(「山県文書」)。

 輝元は元光に対し、別の文書でも材木の川下し輸送への協力を求めている。可愛川によって毛利氏の本拠の吉田まで材木を下すことが計画されていたとみられる(「山県文書」)。なお山県元光は天正十一年(1583)以降にも毛利輝元から「材木河下」を命じられている*6(「山県文書」)。

 年未詳六月、毛利輝元は南方就正に対し、「壬生材木河下之儀」について、近郷に申し付けるよう指示。壬生が材木の川下しの拠点であったことがうかがえる。南方就正は山県元光らの協力を得て、可愛川を利用して材木を輸送したものと思われる。この時の材木輸送は、京都方広寺大仏殿用材の供出を羽柴秀吉から毛利輝元が命じられたことを受けてのものである可能性が指摘されている。

壬生市

 天正十九年(1591)の「毛利氏八箇国御時代分限帳」には「壬生両社(造)営領」として15石1斗、「壬生新宮両社八幡(領)」として31石2斗2升がそれぞれ山県郡内にあったことがみえる。

 また同分限帳には、「壬生市目代」として15石2斗3升6合、「壬生市送り給」として22石4斗7升2合が記されている。当時、壬生に市が立っていたこと、壬生市に毛利氏の公用輸送に携わる運送業社がいたことが知られる。

 江戸期の壬生市は壬生城山のふもとにあった。江戸初期の福島検地には、壬生市分の高29石4斗余が帳請けされている。一方でこの壬生市の所在とは別に、可愛川と志路原川の合流地域に近いあたりに古市の地名が残っており、江戸初期までに今の地へ移動があったと考えられている。

 享保十一年(1726)になると、壬生市の長さ1町20間(約162メートル)、幅2間半(2.7メートル)で、家数66軒の規模となっている。家数の内訳は、百姓家29、小家4、医家1、酒場2、蔵12、牛馬屋18であった。

関連人物

参考文献

【壬生城跡の遠景】

【壬生城本丸から見た有田方面】

【壬生城本丸】

【壬生城二の丸の土塁跡】

【壬生城二の丸手水鉢】

【壬生城二の丸にある多聞寺跡】

【新宮神社(壬生神社)】
紀伊国熊野神社から勧請されたと伝わる。壬生城が戦火に覆われた際に類焼し、享禄三年(1530)に毛利氏により再建されたという。

【善福寺跡】
山県氏の菩提寺ともされる。元亀四年(1573)九月の壬生新宮造営棟札の棟札裏に寄進者の一人として「善福寺」がみえる。文政八年(1825)に編纂された地誌『芸藩通志』によれば、天文年間に(壬生)荘五郎の祈願所として建立されたとのこと。真言宗だったが、『芸藩通志』に編纂時は観音堂を残すのみとなっていたという。

八幡神社跡】

【大歳神社】
新宮神社(壬生神社)と同様に類焼し、享禄三年(1530)に毛利氏によって造営されたという。

【山縣少輔五郎信春公墓】
毛利元就に滅ぼされた壬生城城主の山県信春の墓と伝わる。

【伝山県信春墓塔付近の石塔群】

【壬生城から眺めた壬生の町】

【壬生の町並み】

【壬生の町並み】

【明治三十年代の壬生の集落の看板】

*1:防大内氏当主。東西条鏡山城(現在の東広島市)に重臣を配置し、安芸国に強い影響力を持っていた。

*2:天文十一年(1542)閏三月、当主の吉川興経大内義隆から大朝荘・新庄・北方の合わせて850貫の地を安堵された(「吉川家文書」386)。

*3:棟札には祝師井上左衛門三郎、大工奥野弥左衛門尉の名も記されている。

*4:この時の棟札には物申清藤、大工奥野長門守、小工六郎左衛門の名がみえる。同棟札の裏には寄進者の名が列記されており、山県内蔵丞、境孫二郎らとともに「善福寺」の名もみえる。

*5:壬生近くの「うるし原名」(現在の上漆原・下漆原)を給地として得ていた山県元照・就照の親族。就照の弟元政の孫という。

*6:毛利輝元の書状の宛書が山県惣兵衛尉となっており、元光が宗兵衛尉と名乗る天正十一年(1583)以降であることが分かる。