戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

井上 光俊 いのうえ みつとし

 壬生の神官。仮名は八郎大夫。官途名は勘解由次官(勘解由丞)、のちに豊前守の受領名を名乗るか。壬生八幡宮・壬生新宮などの神事に関わった。

井上氏伝書と『辛未紀行』

 「譜録 井上玄静守常」の井上氏伝書によれば、井上豊前守光俊はもとは毛利元就の側近であったとされる。壬生村八幡宮参詣の際に「社内警固」を毛利元就から命じられたことを契機として妻子一同で社内に居住。毛利輝元の時代からは宮崎八幡(毛利氏の氏神)の社役も勤めたという。

 一方、『辛未紀行』*1の伝える江戸後期ころの壬生八幡の神主井上薩摩守頼定の系図は、井上光俊について「宮崎大宮司祖」「勘解由次官」と付記。また父を兼次、子を就久とする。

 上記二つの江戸期の史料をあわせると、井上光俊は勘解由次官の官途名を名乗り、のちに豊前守を受領名としたこと、輝元の時代から宮崎八幡の社役も勤めたことなどがうかがえる。

井上勘解由と井上豊前

 享禄三年(1530)頃、安芸毛利氏らによって石見高橋氏が滅亡。同年十二月、毛利氏は大内義隆から「山県」など高橋氏の遺領の知行が認められる(「毛利家文書」257)。これにより、壬生を含む山県表に毛利氏が本格的に進出してくることになる。

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 享禄四年(1531)四月、毛利元就は物申(神官の一種)の勘ヶ由左衛門尉の現地での社家分(勘ヶ由左衛門尉の所領)にかかる役のうち、1貫文を免除することを認めている(「譜録 井上玄静守常」)。井上氏が毛利氏被官だった、あるいは毛利氏被官となったことがうかがえる。なお勘ヶ由左衛門尉は「井上氏伝書」や『辛未紀行』にみえる井上光俊あるいは父兼次にあたるとみられる。

 天文二十年(1551)十一月、壬生八幡宮の社殿造営が毛利元就を大檀那として行われた。この時の棟札には「当職」井上豊前守、「社司」勘解由丞、「願主」井上彦次郎*2らの名がみえる。勘解由丞が井上光俊であるとすると、井上豊前守は光俊の父兼次なのかもしれない*3。2年後の天文二十二年(1553)十一月、井上勘解由次官は毛利隆元(元就の嫡子)から「八郎大夫」の仮名を与えられる(「譜録 井上玄静守常」)。

 元亀四年(1573)九月には毛利輝元(隆元の嫡子)が大檀那となり、大願主を井上豊前守として壬生新宮の社殿造営が行われた(『辛未紀行』)。輝元の時代までには井上勘解由次官が豊前守の官途を得ていたとみられる。また年未詳二月、井上豊前守は八幡宮や大歳社の祭礼を行うに際して毛利氏に注進し、毛利輝元から了承されている(「譜録 井上玄静守常」)。

井上光俊の子

 『辛未紀行』の系図では「勘解由次官」井上光俊の子を就久とし、「四郎大夫早世」と付記する。「譜録 井上玄静守常」の井上氏伝書では、家督を継いだ後、毛利輝元に京都に派遣された際に帰路で洪水に遭い死去。天正十四年(1586)五月十五日のこととしている。

 「譜録 井上玄静守常」所収の天正十四年六月十三日付毛利輝元書状によれば、輝元が「上」(京都か)に派遣した「壬生祝師勘ヶ由」が、帰途に洪水によって不慮の死をとげたという。輝元は正法寺春盛に対し、祝師勘ヶ由の跡目は「次男竹寿」に継がせることを伝えるとともに、竹寿が成人するまでは親類の者が神事などを怠りなくつとめるよう申し聞かせよと命じている。

 上記のことから、井上光俊の跡は子の「勘ヶ由」(就久)が継いでいたが、天正十四年(1586)に洪水で死去したこと、光俊の次男竹寿が後継に定められたことが分かる。天正十九年(1591)正月、元服した竹寿と思しき井上左衛門四郎が、毛利輝元から「四郎兵衛尉」の仮名を与えられている(「譜録 井上玄静守常」)*4

参考文献

【新宮神社(壬生神社)】

【新宮神社(壬生神社)の拝殿】

八幡神社跡】

*1:長州毛利家家臣の湯浅明信が文化八年(1811)に安芸国を調査した際の旅の記録。

*2:井上彦次郎は毛利氏近習の一人だったことが他の史料から確認できる(「毛利家文書」626)。

*3:光俊ものちに豊前守を名乗っている(「譜録 井上玄静守常」)。

*4:『辛未紀行』によれば、井上四郎兵衛の実名は元次で、のちに和泉守の受領名を名乗る。61歳で病死した。