桑折西山城の城下町。天文元年(1532)、伊達氏当主・伊達稙宗が居城を梁川城から桑折西山城に移したことを契機として、その膝下に形成された。
桑折宿
桑折は、もともと陸奥国伊達郡の郡衙所在地であり、陸奥国を縦貫する中世の奥大道が通っていた。このため桑折には、以前から奥大道の宿町が営まれていた。城下町・西山は、この桑折宿を前提として形成されたとみられている。
城下町西山の構成
遺跡や分国法『塵芥集』(天文五年成立)などから、西山は町を貫流する産ヶ沢川を境に大きく二つに分かれていたとみられる。すなわち西岸の西山城曲輪に接する地区には伊達家臣団の屋敷や寺院が配置され、東岸地域に奥大道の宿町を基礎とた短冊状の町屋敷が並んでいた。
東岸の町は『塵芥集』に「町屋」とか「市町」とかと記され、「町屋にてハ、数百人の中にて候間」といわれる繁華な場所であった。そこは路地に面して「てん(店)屋」があることがあり、「ぬすミ物」までが売買されているところであったという。
地区を両岸で分けたのが産ヶ沢川だった。『塵芥集』には、産ヶ沢川に架かる橋のたもとで遺失物預かりの告示を行い、持ち主に返却することを定めた一条がある。
伊達氏の都市政策
このように西山城下町は、城主・伊達氏の支配がある程度浸透していた。伊達氏は東岸の「町屋」には、「本町あつかい」として浜田大和を置いて町の行政を行わせている。また、上述のように『塵芥集』に町屋・市町における検断の規定を載せ、さらに町の内の「くかい(公界)のみち」や路地の周囲の景観の維持について配慮を行っている。