戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

清洲 きよす

 濃尾平野を流れる五条川中流域に位置する清洲城の城下町。五条川の河川水運とともに付近を京・鎌倉を結ぶ鎌倉街道がはしる陸上交通の要衝であり、尾張の政治中枢でもあった。

尾張の中心

 文明八年(1476)から同十年までに、守護代織田敏定が守護所を清州に移転する。以降、清州は岩倉と並ぶ尾張の政治・経済の中心となる。

 弘治元年(1555)には、織田弾正忠家の織田信長が、清州に本拠を移している。尾張の支配は、信長の子の信忠、信雄に引き継がれたが、清州はその中心都市としての役割を担ったと考えられる。

惣構と都市構造

 『信長公記』によれば、弘治二年(1556)の織田信広の反乱の際に、信長が「町人も惣構をよく城戸をさし堅め」と命令している。清州に惣構*1が存在し、その中に「町人」が居住していたことがうかがえる。

 さらに文献上、この惣構の外にも二つの市場が確認できる。『信長公記』によれば、誓願寺・山王社付近に「中市場」が、『張州府志』によれば惣構北側の御園社付近に「見曽野市」が、それぞれ存在したことが記されている。

清洲の町場

 また発掘調査によれば、既に敏定の時代には居館を中心に武家屋敷、川港、市場が存在していた。五条川左岸の川港推定地では多量の遺物が出土しており、盛んな交易活動が想定されるという。

 その後、川港は衰退したとみられ、かわって弘治元年頃までには御園社西側に町屋が成立した。16世紀後期には、清州南側(本町西部地区)でも短冊型地割の町屋の出現が推定されている。

参考文献

  • 小島道裕 「戦国期城下町の構造」 (『戦国・織豊期の都市と地域』 青史出版 2005)
  • 鈴木正貫 「尾張の守護所関連遺跡2 清須」 (内堀信雄・鈴木正貫・仁木宏・三宅唯美・編 『守護所と戦国期城下町』 高志書房 2006)

*1:別の箇所では「町口大堀」