戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

国友 与四郎 くにとも よしろう

 国友村出身の鉄炮鍛冶。織田信長羽柴秀勝に仕えた。

織田信長の勘気

 天正七年(1579)八月六日の『信長公記』の記事に、鉄炮屋与四郎が折檻されて牢に置かれ、私宅、資財、雑具をふくめて知行100石が没収されていたことがみえる。当時、与四郎が信長から知行を得て仕えていたことがうかがえる。

 城下町・安土に取り込まれた港町・常楽寺の南には「鉄炮町」があった。このことから、没収された私宅はこの「鉄砲町」にあったのかもしれない。

鉄炮商人

 また与四郎は「鉄炮屋」という名乗りから、鉄炮の販売も手がける商人的な側面も持っていたとみられる。鉄炮鍛冶が鉄炮商人を兼ねる例としては、鉄炮100挺をもって米沢に商いに来た近江日野の鉄炮鍛冶・九右衛門などが挙げられる(「鉄炮一巻事」)。

羽柴秀勝に仕える

  天正十年(1582) 六月、国友与四郎は羽柴秀勝*1から丹波亀山で堪忍分として300石を与えられている。この国友与四郎が、先述の鉄炮屋与四郎と同一人物とみられる。与四郎が信長の没後、羽柴秀勝に仕えていたことが分かる。

 天正十三年(1585)に秀勝が病死すると、与四郎は国友村に帰ったらしい。稲富一夢*2の慶長十五年(1610)三月十七日付の書状に「与四郎」の名がみえる。

参考文献

  • 宇田川武久 「軍拡に生きた鉄炮鍛冶」(松木武彦・宇田川武久 編『人類にとって戦いとは2 戦いのシステムと対外戦略』) 東洋書林 1999

*1:織田信長の四子。羽柴秀吉の養子となった。

*2:徳川氏の砲術師として国友に鉄炮を発注していた。