戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

羊羹 ようかん

 小豆と小麦粉または葛粉と混ぜたものを蒸して作られたお菓子。いわゆる蒸し羊羹に近いものだったといわれる。室町期ごろから、点心の一つとしてみえ、御成・饗応の席などでしばしばお菓子として用いられた。

饗応の菓子

 戦国期での例としては、明応九年(1500)三月、山口の大内義興足利義稙をもてなした際に、「羽ようかん」がみえる(『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』)。また天正十年(1582)五月の安土城での徳川家康への饗応の際の献立にも「御菓子」として、羊羹がみえる(『天正十年安土御献立』)。

中国における羊羹

 元来、「羹(あつもの)」とは、は鳥、獣、魚の肉や肝を使って作ったスープを意味していた。諺に「羹にこりて膾を吹く」とあるように、本来は熱いものだった。羊羹は文字通り羊の羹であり、『史記』など古代中国の史料にも羊の肉を煮込んだスープとしての羊羹がたびたびみえる。

 その後、中国ではしだいにスープが省略され、羊の内臓をペーストにして蒸した羊羹餅に変化していったとされる。

日本の羊羹

 日本の史料で「羊羹」の語がみえるのは、室町前期の『庭訓往来』や『遊学往来』が早い例とされる。『庭訓往来』は点心の一つとして羊羹を挙げており、羹類では他にも鼈羹、猪羹、驢腸羹、笋羊羹、砂糖羊羹などがある。

 同じく室町期に書かれた『點心喰様』に、当時の羊羹の作り方がある。これによれば、小豆を煮て布で漉したものに葛粉と砂糖を加えてもみ、それをこしき(蒸籠)で蒸し固めたものであったようだ。現在の蒸し羊羹に近い。

 中国の羊羹と日本の羊羹の違いについては諸説あるが、小豆で作った餡が原型の羹の形に似ていた(または似せた)、ということらしい。 ちなみに先述の鼈羹、猪羹は形状をそれぞれ亀、猪に似せたものであり(『食物服用之巻』)、驢腸羹は「鱸のはらわたを真似たもの」(『宗五大草子』)であった。

 なお現代の羊羹にはたっぷりと砂糖が入っているが、先述の『庭訓往来』の中では、羊羹とは別に砂糖羊羹が挙げられているので、普通の羊羹には砂糖は入っていなかったと考えられる。江戸中期の有職故実家・伊勢貞丈によれば、ただ羊羹といえば甘葛で甘味をつけたものだったという。

砂糖入り羊羹の登場

 一方で、蜷川親元の日記である『親元日記』には、寛正六年(1465)一月に行われた内評定始の式三献に「サトウ羊羹」が出されてたことが記されている。貴重品であった砂糖を用いた羊羹も少しずつ普及し、現在の羊羹に近づきつつあったことがうかがえる。

参考文献

  • 中島久枝『人と土地と歴史をたずねる 和菓子』 柴田書店 2001
  • 江後迪子 『信長のおもてなし 中世食べもの百科』 吉川弘文間 2007

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蒸し羊羹_織部のお皿 from 写真AC