戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

藍(阿波) あい

 中世日本の代表的な染料。阿波国での生産は、鎌倉期にさかのぼる。

阿波における藍生産の起源

 阿波国における藍生産の起源は、必ずしも特定されていない。しかし宝治元年(1247)、現在の美馬郡脇町に宝珠寺(見性寺の前身の寺)が建立された際に、開山として紀州・興国寺から招かれた翆桂和尚が、「染葉」をもってきて栽培し、僧衣を染めたとする記事が「見性寺記録」にある。藍の生産は、鎌倉中期にまで遡ることができる。

商品として船積みされる

  阿波の藍は室町中期には、商品化されていた。文安二年(1445)の『兵庫北関入舩納帳』によれば、土佐泊、撫養、惣寺院の船が藍を兵庫に運んでいる。その他にも、地下(兵庫)の船が412石、由良の船が23石の藍を兵庫に運んでいる。両者ともに阿波、土佐の産品である榑(くれ)や阿波塩を運んでいることから、藍も阿波産のものを積出したとみられる。

 この頃、京都では九条寝藍座(藍草を発酵させ、染料原剤とする業者)や三条藍座が成立している。阿波の藍は、京都に原料として供給されていたとみられる。

藍染の傍証

  天正十三年(1585)、阿波国に入部した蜂須賀氏は、その翌年には呉服屋又三郎を紺屋司に任じ、紺屋役を徴収させたと伝えられている。紺屋は染料原剤(「しとみ」)を用いて実際に糸や布地を染める業者であり、戦国期の阿波では原料生産だけでなく、藍染自体も行われていた可能性がある。

参考文献

  • 永原慶二 『芋麻・絹・木綿の社会史』 吉川弘文館 2004