平泉寺の有力坊院主である玉泉坊が所持していた青磁の花入。のちに織田信長の手に渡ったが、本能寺の変の際に失われたと推定されている。
平泉寺玉泉坊所有の名物
茶道具の名物を列挙した『松屋名物集』には「平泉寺玉泉 芙蓉 朱屋肩衝 青磁筒」が挙げられている。平泉寺の波多野玉泉坊が芙蓉の掛軸、朱屋の銘を持つ肩衝茶入、花を生ける青磁の筒といった名物を所有していたことが分かる。
平泉寺は白山信仰の拠点となった寺院。養老七年(717)に泰澄により開かれたといわれ、平安末期に比叡山延暦寺の末寺となり発展した。戦国期の景観を描いた絵図(制作は元禄頃)には、社殿や仏教の大塔、講堂、そして無数の坊院群が描かれている*1。
そして平泉寺の有力な坊院主の一人が波多野玉泉坊だった*2。波多野氏は鎌倉期に志比荘の地頭として越前に入り、道元を招いて永平寺を建立し、戦国期には朝倉氏の家臣となっていたという。
なお平泉寺の中世後期の遺構からは、中国製の碗皿類を中心とした多くの貿易陶磁が出土。その中には青白磁観音像、元青花器台、華南緑釉陶器筆架、黒釉陶器天目茶碗、黒釉陶器茶入、青磁酒会壺、翡翠釉酒会壺などの特殊品もあった。
これらの多くは、座敷の床飾りや茶道具として用いられた品々で、所有者の富や権力をあらわす威信財でもあった。名物とされた青磁筒もそのような威信財の一つだったとみられる。
織田信長に渡る
平泉寺はしかし、天正二年(1574)に一向一揆によって全山を焼かれ、終焉を迎えた。一方で平泉寺玉泉坊の青磁筒は織田信長が入手していたらしい。
『仙茶集』には、天正十年(1582)六月二日の本能寺の変の直前に信長が所持していた名物のリストが記されているが、その中に「つゝへいせんじ玉泉所持」がみえる。なお『茶道具之記』の天正三年名物記部には、「信長殿御物之分」の中に「同(花瓶) 筒 青磁」が挙げられているので、天正三年までには織田信長の手に渡っていたことが知られる。
天正元年八月十八日、平泉寺は信長に「御忠節」を誓って、朝倉氏攻めに加勢(『信長公記』)。また時期は不明ながら、玉泉坊が信長から一山総務の朱印を得ていたことが知られる*3。これらのことから、朝倉氏滅亡前後の時期に、玉泉坊が信長に青磁筒を献上した可能性が指摘されている。
織田信長の力を背景として、玉泉坊は社領・神物を自由に差配し、平泉寺の諸院諸坊から黄金を徴収した。これに不満を持った宝光院(有力な坊院の一つ)*4や寺衆は、天正二年一月二十三日、玉泉坊父子を討ち取ったという。
その後、宝光院は、織田氏に降っていた朝倉景鏡を引き入れて平泉寺を維持しようとしたが、景鏡は一向一揆にとっては「大敵」だった(『越州軍記』)。その結果、一向一揆と対峙することになった平泉寺は、四月十五日に全山を焼かれることになった。
参考文献
- 阿部来 「白山平泉寺の繁栄と富」(勝山市編 『白山平泉寺 よみがえる宗教都市』 吉川弘文館 2017)
- 矢野環 「『茶道具之記』(岩瀬文庫蔵) : 天正名物記 & 秀吉名物記」(『文化情報学』3 2008)

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyohaku/G%E7%94%B2669?locale=ja
すでに失われているが、平泉寺玉泉坊の青磁筒はこのようなものだったのだろうか