戦国日本の津々浦々 ライト版

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古保利薬師(広島県北広島町・廃福光寺) こおりやくし

 古保利山(広島県北広島町)南側中腹の小堂(廃福光寺)に安置されていた12体の仏像群。木造薬師如来坐像(通称「古保利薬師」)を本尊とし、両脇待である日光菩薩立像・月光菩薩立像、ほかに千手観音立像・十一面観音立像・吉祥天立像・四天王立像がある。いずれも国の重要文化財に指定されており、平安時代の地方における優れた作品として高い評価を受けている。

廃福光寺の仏像群

 古保利薬師の仏像群が安置された小堂の場所には、かつて福光寺という大寺院が営まれていた。福光寺は古保利山金蔵院と号し、弘法大師開基の伝承を持ち、鎌倉期以降は大朝荘地頭吉川氏の菩提所として尊崇を集め隆盛を誇った。しかし吉川氏が周防国岩国に移ったのちは衰微の一途をたどったという。

 江戸期の文政八年(1825)に完成した地誌『芸藩通志』には「廃福光寺」について以下のように記されている。

古保利山金蔵院と号し、四十九坊ありて、三百石の寺領ありしを、今堂一宇、二王門稲荷社を遺す。堂中に釈迦薬師二大佛、及ひ小像数坐を置く。寺址も四十余区見えたり。(後略)

 福光寺は盛時には49坊、寺領300石を擁したと伝えられていたが、一方で小堂1棟と仁王門、稲荷社を残すだけになっていたことが分かる。また堂の中には薬師如来像と釈迦如来像の2体の大仏と、名前の分からない仏像群があったことなども記されている。

山県郡と凡氏

 福光寺が建立された時期を示す史料はない。ただし治承四年(1180)の「安芸国壬生荘作田内検帳目録」*1の中には、「福光名」という名田が確認できる。

 この頃、壬生荘を管理していたのは有力地方豪族の凡(おおし)氏だった。同氏が所領内に「福光名」を有していたことは、福光寺との深い関わりを想起させる。

 また福光寺は古保利山に建てられていた。古保利(こおり)の地名は「郡(こおり)」に通じ、古代律令体制下において山県郡の郡家が置かれた場所と考えられている。この山県郡の郡家において、有力豪族凡氏は郡司クラスの官人としてその運営に大きな役割を果たしたとみられる。

 これらのことから、福光寺は凡氏が平安時代前期に、郡家あるいはその直近の地に建立した寺院であった可能性が示される。寺院建立にあわせて古保利薬師の仏像群も造像されたものとみられる。

平安時代の地方における優品

 古保利薬師の仏像群の中心となるのは、木造薬師如来坐像(通称「古保利薬師」)。総高122cm、ヒノキあるいはカヤの一木造で、ずんぐりとした体躯や衣文の曖昧な翻羽式(衣のひだの表現様式)の表現などから、平安時代前期の制作と考えられている。

 また、薬師如来坐像の両脇侍である日光菩薩立像・月光菩薩立像は、それぞれ像高151.8cm、142.3cm。両像ともヒノキあるいはカヤを素材とした仰蓮までの一木造。形状・姿勢は、両像とも左右対称でほぼ同じ造形となっている。平安時代前期の9世紀後半から10世紀初頭に制作されたと考えられている。

 他の仏像9体の内訳は、千手観音立像1体、十一面観音立像3体、吉祥天像1体、四天王立像4体。いずれも平安時代前期あるいは前期から後期にかけての作品とされる。なお制作については、12体の全てが同一の工房ではないとしても、全体として一貫した特色がうかがえるという。なお重要文化財指定の12体以外にも、鎌倉期の制作と推定される木造十二神将立像などもある。

 現在、古保利薬師の仏像群は、かつての福光寺境内にある千代田歴史民俗資料館の収蔵庫にて保管されており、拝観も可能となっている。

参考文献

  • 千代田町役場 編 『千代田町史 通史編(上)』 千代田町役場 2002
  • 広島県立歴史博物館 編 『令和6年度 夏の企画展 名宝が織りなす歴史物語−広島県の国宝・重要文化財Ⅳ−』 広島県立歴史博物館 2024

【木造薬師如来坐像(古保利薬師)】
千代田歴史民俗資料館収蔵庫にて撮影

【右から月光菩薩立像・千手観音立像・吉祥天立像・四天王立像】
千代田歴史民俗資料館収蔵庫にて撮影

【左から日光菩薩立像・十一面観音立像3体・四天王立像】
千代田歴史民俗資料館収蔵庫にて撮影

【四天王立像および十二神将立像】
千代田歴史民俗資料館収蔵庫にて撮影

【四天王立像および十二神将立像】
千代田歴史民俗資料館収蔵庫にて撮影

『芸藩通志』巻60 安芸国山県郡四 寺院「廃福光寺」
国立公文書館デジタルアーカイブ

【山門(仁王門)の仁王像(右)】
平安末期から鎌倉初期の製作と推定されている

【山門(仁王門)の仁王像(左)】
平安末期から鎌倉初期の製作と推定されている

*1:壬生荘内の田地を検査し、その結果を目録にまとめたもの