岸和田流の創始者とされる炮術師。元来は薩摩出身の商人であったという。
豊後国で鉄炮を鍛錬
「鉄炮之大事」*1の中に収録された「鉄炮位名之事」には、岸和田流の起源についての記述がある。これによれば、大唐から筑紫豊後の国に鉄炮が伝えられ、「そこふ」という村で広まった。この時「きしのわだ(岸和田)」という薩摩出身の商人が、その村で猟師が鉄炮で鹿を撃っているのを見て、これをならって鍛錬して一流を興したという。
関東で鉄炮を広める
この後、岸和田(あるいは彼の高弟)は、関東に下って岸和田流の炮術を広めたとみられる。『北条五代記』の「関八州に鉄炮はじまる事」の記事によれば、北条氏康の時代に、堺から国康という鉄炮鍛冶の名人を呼び寄せ、また根来法師の杉房や二王坊、それに「岸和田」などという者も下ってきた。彼らが関東を駆け回って鉄炮を教えたという。
岸和田が関東に下った時期は不明だが、天文二十二年(1553)、上野国の新田金山城主の横瀬成繁は、鉄炮好であることが知られていた。このことを聞いた将軍足利義藤は、彼に鉄炮1挺を贈っている。天文二十年ごろには、岸和田ら炮術師が関東に鉄炮を持ち込んでいた可能性が高い。
越後への伝播
その後、岸和田流は越後へと伝播する。上杉謙信や景勝の時代には、上杉氏譜代の炮術師として唐人式部大輔秀正*2の実在がを確認できる。