戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

狩野 玉楽 かのう ぎょくらく

 相模小田原の絵師。小田原狩野派の一人。その画風は、室町幕府や朝廷の御用を受けて中央で活躍した絵師・狩野元信の周辺で学んだことを思わせる正系のものだという。

謎の絵師

 玉楽について書かれた史料は、近世編纂のものしか無い。玉楽の作品についても印文「右都御史之印」の方印が捺されているだけで、この印の使用者が「玉楽」であるとされている。玉楽の実像については、よくわかっていない部分が多い。

近世史料にみる玉楽

  寛文二年(1662)成立の画譜『丹青若木集』などでは、狩野元信の弟子であると同時に、伊勢山田出身の絵師・珠牧*1の弟とされる。北条氏政の画工をつとめて、小田原で没したという。また寛文十二年成立の『画工便覧』には、氏政の画師などと記されている。

 『古画備考』によれば、北条氏政が絵をよくしたとされる。一族の玉縄城主・北条氏繁が描いた「鷹図」(現存)も、素人離れしている。これらのことから、北条一族が絵画に高い関心をもっていたことは事実らしい。

伊達輝宗へ贈られた扇子

  永禄十二年(1569)五月二十日、北条氏照は奥州米沢の伊達輝宗に宛てて武田氏の駿河侵攻の情報を伝えるとともに、狩野派絵師が描いた扇子十本*2を贈っている。玉楽ら小田原の狩野派絵師は、このように北条氏の御用を務めていたものと考えられる。

参考文献

  • 鳥居和郎 「狩野玉楽」 ( 戦国人名辞典編集委員会・編 『戦国人名辞典』 吉川弘文館 2006)
  • 「戦国時代の小田原の絵画動向」 (『小田原市史 原始・古代・中世』 1998)

伝狩野玉楽筆「美人焚香図」(『長春閣鑑賞 第2集』)

 

*1:鶴岡八幡宮正殿内陣の障子絵などを描いた。

*2:原文は「扇子十本狩野筆進入」。