戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

神門 国清 ごうど くにきよ

 杵築大社大工職・神門氏の当主。官途名は次郎左衛門尉。神門慶清の父。16世紀前半から中頃に活躍した。神門氏は永正九年(1509)の段階では「北島方大工塩冶の神門」としてみえる。杵築大社を司る千家・北島の両国造家のうちの、北島氏に属する大工であった。

尼子氏との関係

 神門氏は「北島方大工塩冶の神門」とも呼ばれており、塩冶郷を本拠とする大工であった。国清は天文十三年(1544)、同郷を支配する尼子国久から「塩冶之内大工給室」を安堵されている。国清の実名は、国久から「国」の偏諱を与えられたものとも推定される。

 天文十四年、国清の子の左衛門次郎(慶清)が、退転した吉河隼人佐に代わって国造千家氏の大工職に任じられた。五月、国清は千家氏に誓約状を提出している。この神門氏の大社大工職独占の背景には、国造家への尼子氏の圧力があったとみられる。同氏が神門氏を通じて、寺社造営事業への介入を進めていたことをうかがうことができる。

大工としての活動

 天文十九年(1550)、国清は杵築大社造営に北島氏方の大工として参加している。千家氏方の大工は、子の神門左衛門次郎(慶清)だった。

 この他にも、須佐(出雲市佐田町須佐)に鎮座する須佐大明神の造営がある。天文二十四年(1555)十一月二六日の年紀を持つ同社の棟札によれば、造営は尼子晴久・義久父子を大檀那とし、領主・高橋(本城)常光らのもとで行われた。そこに「大工」として「神門次郎左衛門尉国清」も名を連ねており、ここでも尼子氏と神門氏との結びつきをみることができる。

参考文献

  • 長谷川博史 「杵築大社大工職と神門氏―新出「神門家旧蔵文書」の歴史的価値をめぐって―」 (『広島大学文学部紀要60』 2000)