陸奥一宮・塩竃社の門前町。同時に陸奥南部の中心・多賀城(多賀国府)の外港として栄えた。製塩も盛んであり、南北朝期の旅行記『都のつと』には「あまの家」から塩焼きの煙が立ち昇る塩竃の風景が記されている。
多賀国府の外港
鎌倉期、陸奥国留守職となって多賀国府を指揮した留守(伊沢)氏は、塩竃社の神主でもあった。また早くから「しほかまのつ」に在家と「ひらた舟」(川舟)を所有していた。
また鎌倉末期、多賀国府の冠屋市場には「塩竃別当五郎」の在家があり、「船一艘ひらた」が付属していた(『留守文書』)。塩竃が多賀国府と密接な関係にあったことがうかがえる。
元徳二年(1300)ころ成立の「一遍聖絵」にも、長距離航海用の大型船を含む大小の船が停泊する塩竃の港の様子が描かれている。少なくともこの頃には、塩竃は多くの船が遠くからも集う港と認識されていた。
塩竈の町場
戦国期、天文年間の『留守分限帳』によれば、塩竃には留守氏家臣団が町在家81軒(うち新町30軒)、蔵20以上を有していた。塩竃の在家数は多賀国府を上回りながら、さらに多数の新町を形成して発展を続けていることが分かる。
塩竈の住人
また在家をもつ者についてみれば、「けんたん(検断)」は留守氏に任命された町役人とみられる。この他に「いつ」「かつさ」などは伊豆房、上総房などの公名を持つ僧体の人物とみられ、商人・高利貸しといった下層の商人であった可能性が高い。
また「ゑひす」「ちやせん」「山ふし大くら」といった芸能者とみられる人々もいた。港町塩竃に、様々な人間が集っていることがうかがえる。