戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

内海 うつみ

 尾張国知多半島南部の伊勢海沿岸に位置する港町。中世、伊勢海水運を担う尾張側の主要な廻船基地として栄えた。その位置関係から、尾張三河と対岸の伊勢との間の流通を中継する役割を担っていたと思われる。

内海の廻船

 長禄四年(1460)九月、知多郡分郡守護・一色義遠の被官が、「尾張国内海荘廻船公事」を押妨したとして、内海荘領主の相国寺大智院から幕府奉行人へ訴えられている(『蔭涼軒日録』)。

 この「廻船公事」については、賦課対象が内海荘へ入港した廻船か、内海荘住人所有の廻船かは明らかでない。しかし少なくとも当時、内海が廻船が出入りする水運の拠点であったことが窺える。

内海舟の積荷

 また天正二年(1574)における伊勢・大湊の入港記録『船々取日記』には、3艘の内海舟が記録されている。内海舟は入津料100文を「もんめん(木綿)壱たん」や麦で支払った。木綿や麦は、この時の内海舟の積荷とみられる。特に木綿は知多半島、もしくは三河産のものを輸送したとみられる。

伊勢大湊への介入

 天正三年以降と推定される時期に、大湊で「落舟」(諸役を納めずに海関を通過する船)として抑留されていた内海廻船について、織田氏奉行人・沢井吉長が大湊老分中に宛てて内海側への返還を命じる書状を出している(「伊勢市大湊支所所蔵文書」)。

 この書状の中で、大湊において入津料の徴収を担当する「当月之番衆」に内海が加えられたことが分かる。入津料徴収は従来、大湊の自治組織である老分衆が担っていた。その職掌の一角に、内海の勢力が食込んでいることが窺える。

関連交易品

参考文献