石見銀山の住人。浄土宗系の在家信者とみられる。弘治三年(1557)、妻とともに発願して板碑(板状に加工した石でつくられた供養塔の一種)を建立した。
夫婦が造立した板碑
石見銀山大谷地区の龍源寺間歩からほど近くの場所にある「定徳寺脇墓地」(「坂根口番所跡」近く)に、弘治三年(1557)十一月十六日の紀年銘がある板碑が残されている。主願文の左下に「為道立禅定門」と「同◯◯禅定尼」の名が刻まれており、為道立禅定門とその妻が板碑を造立したことがうかがえる。
為道立禅定門夫婦が造立した板碑は、高さ114cm、最大幅36cm、厚さ20〜22cmほど。石見銀山周辺で採取できるデイサイトの自然石を用いている。ただし整形板碑*1の形状を意識しているとみられ、頭部を両側面から斫(はつ)り、尖頭状に仕上げている。
板碑としての碑文体裁は、最上部に「二条線」を略した一条線を施し、その下に阿弥陀三尊種字(阿弥陀三尊を表す梵字*2)を配置する。続けて主願文として「南無阿弥陀佛」の六字名号を中央に大きく彫り込む。主文の右側に浄土信仰で多用される摂益文(「観無量寿経」第九真身観の一節)を施し、左側には「妙法蓮華経」化城喩品第七に由来する回向文(えこうもん)を表している。
碑面の下部には前述のとおり紀年銘と施主名があり、あわせて「逆修」「善根」という造立目的が刻まれている。このことから為道立禅定門夫婦については、以下のことがうかがえる。
- 浄土宗系の阿弥陀信仰をもつ在家の信者夫婦
- 自らの逆修・善根を願って生前に板碑を造立した
板碑の特徴から分かること
素人による制作か
石見銀山では天正期(1573~1592年)以降、石造物に白色凝灰岩が用いられるようになる。一方で為道立禅定門が造立した板碑は、前述のとおり在地で産出するデイサイトを用いている。
さらに板碑形に丁寧に整形されたものでなく、頭部側面のみ加工して尖頂状に整えて板碑らしい形状に近づけている。また、碑面に刻字される文字は字体、彫字技術ともに稚拙であるとされる。石材の選定・加工方法、銘文の字体、彫字技術からみてプロの石工ではなく、素人による制作が考えられている*3。
なお「定徳寺脇墓地」における弘治三年(1557)の次の紀年銘入り石造物は、天正二十年(1592)銘の白色凝灰岩製一石五輪塔となる。
他国出身者による板碑文化の流入
石見国においては、中世を通じて板碑を造立する習慣・文化が希薄であったと考えられている*4。これは出雲国も同様であり、天台宗寺院の影響が強い地域を核に若干の板碑造立が認められるのみとなっている。
そのような中で、石見銀山大谷地区に弘治三年(1557)銘の板碑が造立された背景には、板碑文化を知る他国出身者の関与があった可能性が指摘されている。初期の石見銀山の開発経営には、地元だけではなく、多くの他国出身の武士、技術者層の入り込みが推測されている。
参考文献

石見銀山世界遺産センター秋季企画展「「石」は語る 石見銀山500年の歴史」にて撮影
