戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

青磁輪花茶碗 銘 馬蝗絆 せいじりんかちゃわん めい ばこうはん

 緑水色の青磁の茶碗(青磁輪花碗)。高台周りのひび割れをホッチキスのように鎹(かすがい)で留めて修理してある。張りのある曲線を描いて立ち上がる姿の優美さ、わずかに緑をふくんだ青磁釉の美しさを持つ。なお「馬蝗」とはヒルを意味するという。

『馬蝗絆茶甌記』

  馬蝗絆の由緒は、享保十七年(1727)に儒学者の伊藤東涯が記した『馬蝗絆茶甌記』に詳しく記されている。

 これによれば、平安末期に平重盛南宋杭州の育王山*1に黄金を寄付した際、当時の住持仏照からの返礼の品々の中に青い茶甌(茶碗)が一つあった。この茶甌は「翠光」が見たことがないほど透き通っていた。

 のちに室町将軍の足利義政相伝したとき、底にひび割れが生じたため、義政は中国明朝にこれを送り、代わりの侘びた茶碗を求めた。しかし明朝では匠が6つの鉄釘でこれを束ねて修復し、義政に返還してきた。その絆(結束部)が「馬蝗」のようで却って趣きあるものになったので、「馬蝗絆茶甌」と号すようになったとされる。

 足利義政は馬蝗絆を侍医の吉田宗臨に下賜。以後、江戸期享保年間の伊藤東涯の時代まで宗臨の子孫である角倉吉田家に受け継がれたのだという。

他の史料

 馬蝗絆は現在に伝わっており、南宋時代の13世紀ごろに中国の龍泉窯で制作されたと推定されている。『馬蝗絆茶甌記』では平重盛が仏照禅師から贈られたものとしているが、少なくとも制作年代との矛盾はない。

 18世紀末の寛政年間に江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』巻427「宇多源氏 佐々木庶流 吉田」に吉田宗林(宗臨)についての記述がある。すなわち、足利義政に仕えて顔輝・陳所翁・牧谿の三筆、龍虎の三幅一対の掛幅、および「馬蝗絆と名づけし青磁の茶碗」を賜り、天文十二年(1543)十一月七日に96歳で没したとされる。

 なお同時代史料でも天文四年(1535)三月二十一日の記録に「吉田宗臨同因幡守」とあり(「別本賦引付四」)、吉田宗臨の存在が確認できる。また別の史料などから、法名である「宗臨」の以前は吉田忠兵衛尉を名乗り、実名は光清であったことが知られる。

 宗臨の次代にあたる吉田宗忠やその一類は、嵯峨において酒屋や土倉を営んだ。一方で宗忠の子の宗桂は天文八年(1528)に天龍寺策彦周良に随行して中国明朝に渡っており、おそくとも天文二十年(1551)には「医者意安」として活動していたことも確認されている(『言継卿記』天文二十年正月二六日条)。

 ただし馬蝗絆と呼ばれた青磁茶碗については、同時代史料には見えない。このため、角倉吉田家が所持していた馬蝗絆の由緒には、かなりの創作が含まれている可能性は否定できない。

鎹で修理された陶磁器

  一方で越前朝倉氏の本拠一乗谷の遺跡からは、馬蝗絆のように鎹で修理されたとみられる陶磁器が出土している。

 これは同遺跡から出土した150万点の陶磁器の中でも、中国河北省定窯で焼かれた12世紀頃の瓜型と輪花型の鉢、14世紀の青磁の下蕪の花生と片口という4点のみにみられる。これらは一乗谷全盛期の16世紀においても価値の高い骨董品であり、室町期の唐物数寄の中でも特別に評判が高かった。

 通常、漆を糊代わりにして修理するところを、わざわざ目立つ鎹を用いていることから、器の価値を誇示する目的もあったと推定されている。

参考文献

  • 岩田澄子 「青磁茶碗・馬蝗絆の語義について」(『茶の湯文化学会会報』75号  2012)
  • 小野正敏 『戦国城下町の考古学 一乗谷からのメッセージ』 講談社 1997
  • 河内将芳 「戦国期京都の土倉角倉吉田に関する二、三の問題-「吉田宗忠一類」をめぐって-」(『奈良史学』39 2022)
  • 高橋義雄 編 『大正名器鑑 第6編』 宝雲舎 1937

青磁花茶碗 銘 馬蝗絆
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/TG-2354?locale=ja

青磁花茶碗 銘 馬蝗絆
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/TG-2354?locale=ja

*1:阿育王寺。実際には杭州ではなくて明州(寧波)にあった。