戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

黄窩児船 ふぁんうぉる せん

 サハリン(樺太)の民・二ブフ*1によって造られた船。サハリン周辺海域での航海で使用された。板船であったと推定されている。

海を渡るアイヌと二ブフ

 元朝(大元ウルス)時代の記録によれば、1297年(永仁五年)、「骨嵬」(クイ)=アイヌ瓦英が「吉烈迷」(ギレミ)=ニブフの造った所の「黄窩児船」に乗って間宮海峡を渡り、「只里馬觜子」(チリマみさき)に攻めてきたことがあった(『元分類』巻41)。

 二ブフが造船技術を持ち、サハリン周辺海域での航海の担い手であったことがうかがえる。当時、元朝アムール川下流部のティル(奴児干)に地域支配の拠点(東征元帥府)を置いていたが、たびたび侵入するアイヌに悩まされていた。アイヌの移動は、航海技術を持つ二ブフの協力を得て行われていたのだろう。

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五枚板の船

 中国明代の史料に、アムール川下流域で用いられる「廣窟魯」(カングル)という船について記載がある(『遼東志』巻9)。これが黄窩児船と同じものだとする見解がある。この船は「五板船」であるとされ、船首に二股になった木の根を置くが、これは鹿の角のようであり、両舷で櫂を動かし、川の中を進むとある。

 「五板船」は、五枚の板からなる板船であったと推定される。時代は下るが、清代の記録にも五板船の記述がある(『柳辺紀略』)。この船は10人余りが乗ることができ、木の釘を用い、板の間に青苔を詰めていたと記されている。

 19世紀、間宮林蔵も「五葉松を以て是を作り、其釘は悉く木を用ゆ」という船について報告している(『北夷分界余話』)。

ニブフの板船

 二ブフ語で船のことは”mu”というが、板船のことは”kalmrmu”とも言うという。”Kalmr”とは、板という意味であるが、「廣窟魯」が板船であったことからみて、「黄窩児」や「廣窟魯」は、”Kalmr”を漢字音で表したものと考えられている。

参考文献

  • 中村和之 「二ブフの交易と船」(北海道立北方民族博物館編『第9回特別展図録 北方民族の船 北の海をすすめ』) 財団法人北方文化振興協会 1995

*1:当時は「ギレミ」と呼ばれた。中国の史料には「吉烈迷」「吉列滅」「吉列迷」などと表記される。かつては「ギリヤーク」とも呼ばれた。