戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

鯔(周防) ぼら

 ボラ目・ボラ科に分類される魚の一種。中世、周防の特産品であり、船で畿内にも運ばれた。

熊毛郡室積浦の鯔漁

 大永六年(1526)八月、朝大野家次は「室積ないしあミ本山高へ(部)」を900文で東浜四郎兵衛に売却している(「秋光家文書」)。高部は鯔敷網の網主を意味する。鯔敷網には前網と中網があり、前網は室積の早長八幡宮の鎮座後まもなく始まったと伝えられている(『防長風土注進案』)。

 また永禄十三年(1570)十二月、江原与三郎は「当見役」を五貫文で植松藤四郎に売り渡している*1(「秋光家文書」)。「当見役」は江戸期の高見役に相当すると推測される。

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 同じ熊毛郡では、伊保庄阿月の鯔漁は文禄年間(1592~96)の開始と伝えられている(『防長風土注進案』)。中世後期に瀬戸内海では、網による鯔漁が盛んであったことが分かる。

鯔の流通と利用

  文安二年(1445)、3隻の上関船が鯔42駄を兵庫に輸送している(『兵庫北関入舩納帳』)。

 一方で周防国内であれば、刺身として食べられることもあった。明応九年(1500)三月五日、周防山口の大内氏館を足利義稙が訪れた際の宴会料理に「さしみ名吉」がみえる(『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』)。名吉は鰡の幼魚。当時の刺身は、酢で食べるのが一般的だった。

参考文献

  • 山口県 編 『山口県史 通史編 中世』 山口県 2012
  • 北島大輔「大内氏は何を食べたか−食材としての動物利用−」(小野正敏・五味文彦・萩原三雄 編 『考古学と中世史研究6 動物と中世−獲る・使う・食らう−』 高志書院 2009)
  • 江後迪子 『信長のおもてなし 中世食べもの百科』 吉川弘文間 2007
  • 山口県 編 『山口県史 史料編 中世2』 山口県 2001

出典:ぼら・椿 (広重魚尽)

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鯔 from 写真AC

*1:併せて、「天下一同之御徳政」が行われたとしても、返還に同意しないことを約束している。