アイヌの首長。享禄二年(1529)、セタナイ(現在の久遠郡せたな町)で蜂起し、上之国を攻めた。
松前氏(蠣崎氏)の記録
江戸初期に松前氏によって編纂された『新羅之記録』によると、享禄二年(1529)三月二十六日、上之国和喜館がタナサカシに率いられたアイヌに攻撃された。同日、蠣崎義広は和睦と偽って「償之物」を差し出し、タナサカシが喜んだところを、義広自身が弓で射殺した。大将を失ったアイヌは総崩れになった。
民間の記録
一方で松前氏が関わらなかった編纂物には、異なる経緯が記されている。『松前旧記』*1によれば、アイヌの首長タナサカシは、享禄二年(1529)に、まずセタナイ(現在の久遠郡せたな町)で蜂起した。これを工藤佑兼が迎え撃ったが、佑兼は討死。アイヌは勝ちに乗じて上之国まで攻めてきた。この時、佑兼の弟・佑致がアイヌを欺いて大将のタナサカシを松前に連れ出し、そこで蠣崎義広がタナサカシを弓で射殺したとしている。『新羅之記録』に比べるとかなり具体的である。
また『東蝦夷夜話』*2では、タナサカシを討ったのは、上之国に在城していた蠣崎義広の弟「高広」*3と書かれている。
弔い合戦
『新羅之記録』によると、後に蠣崎義広は、アイヌの首長であるタリコナ夫妻を誘殺している。タリコナの妻はタナサカシの娘であり、仇を討ってくれと夫に頻繁に言っていたという。
『東蝦夷夜話』には、この件が詳しく記されている。天文五年(1536)六月、西部の首長タリナ(タリコナのことか)を大将として、アイヌが熊石(二海郡八雲町)近辺で一揆を起こした。これを蠣崎高広*4が鎮圧した。タリナは東部のタナケン(タナサカシ)の婿にあたり、舅の弔い合戦だった、としている。