戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

張 忠 ちょう ちゅう

 明国出身の医師。大内氏、後に毛利氏に仕えた。張由*1の子。張思朝の父。

明国からの来航

 毛利元就や隆元、輝元らは、張忠の子の張思朝に宛てた書状で思朝の肩書きを「大明人」と記している。張忠、張思朝父子は中国明朝の出身者と認識されていたことが分かる。

 江戸期に編纂された『閥閲録』巻78張久左衛門の項には、張忠の来歴が載せられている。これによれば、元々張忠は北京の皇帝の寵臣だった。しかしある時讒言を受けて窮地に陥り、船で朝鮮に亡命しようとしたところ、風にあおられて肥前平戸に漂着。平戸の領主松浦氏から連絡を受けた大内義隆は、通訳を派遣して詳細を尋ねた。

 その後張忠一行は周防小郡に来航し、義隆と対面した。張忠が儒教と医術を修めていたため、名医が日本にやってきたと評判になったという。

日本での活動

 安芸吉田の毛利元就の嫡男・毛利隆元の娘は、長年病に悩まされていた。そこで元就は大内義隆に要請して張忠を吉田に招き、治療を依頼したところ程なく回復した。しかしこの間、大内義隆陶晴賢大寧寺の変で討たれた。張忠は吉田に留まり、毛利氏による防長経略とともに山口に入り、同地で没したとされる。

 以上が『閥閲録」所収の張忠の伝だが、一部明らかに後世の脚色とみられる部分がある。というのも、天文二十三年(1554)十二月、張忠は陶晴賢に益田兼貴(石見益田の国人・益田氏の有力者)の体調が快方に向かっていることを報告している(「益田高友家文書」)。

 張忠は晴賢によって、益田兼貴の治療の為に派遣されていたものと思われる。大寧寺の変後、張忠は安芸吉田に居たわけではなく、毛利氏と敵対した陶晴賢のもとで活動していた。毛利家臣となった子孫にとっては、不都合な事であったのかもしれない。

毛利隆元に仕える

 年未詳六月、張思朝に初めて対面した毛利隆元は、今後は父張忠と同様に諸事等閑ないようにと求めている。また隆元の死後の永禄八年(1565)九月、毛利元就と輝元は山口大町にあった張忠の屋敷について、隆元の袖判奉書の通り張思朝にそのまま宛てがう旨を伝えている。

 いずれかの時点で張忠は毛利氏に出仕し、隆元から山口で屋敷を与えられていたことが分かる。

参考文献

f:id:yamahito88:20210918235328j:plain

益田兼貴の拠点・長門須佐の遠景。張忠は兼貴の治療の為、この地を訪れたのかもしれない。

*1:張忠の父。明の侯に封じられていたという。