安芸国西部を貫流する太田川と、同国吉田方面から流れる根の谷川の合流地点に位置する市町。両河川流域と瀬戸内海を結節する、河川水運の要衝として栄えたとみられる。
可部源三郎の経済力
治承四年(1180)、源頼綱が厳島神主・佐伯景弘に宛てた書状によれば、頼綱の父・頼信は、 藤原成孝から経済力を見込まれて多額の負債とともに三田(広島市安佐北区)、粟屋両郷の譲与を受け、その負債を完済したという。この所領を相続した頼綱は別名で「可部源三郎」を称し、可部を本拠としていた。
源頼信・頼綱父子の経済力の背景には、本拠・可部を中心とした河川水運への関与があったと考えられる。
佐東川(太田川)の流通
健保五年(1217)、杣山から伐り出されて佐東川に河下しされる榑(規格化された材木)の通行税率をめぐり、安芸守護で可部荘地頭を兼帯する宗孝親が、国衙と争論を起こしている。河川流域で伐り出される材木の流通において、可部は大きな利権が絡む重要な地域だったことがうかがえる。
可部の市町
厳島神社にのこる「厳島神社回廊棟札写」によれば、天正五年(1577)十月、「可部市」の「神立孫兵衛尉」が厳島神社に回廊一間を寄進している。戦国期の可部に、おける市町が形成が確認できる。また厳島神社に寄進を行う富裕な人物が居住していたこともわかる。
熊谷氏との関係
現在の可部の町には、街道が直角に折れた場所がある。これは「折り目」と呼ばれ、城下防衛のために熊谷氏が築造したものだといわれる。可部の町は国人領主・熊谷氏の城下町として、同氏の編成も受けていた可能性がある。