戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

南蛮犬 なんばん けん

 戦国期、来航するヨーロッパ人らは、日本に犬も持ち込んだ。珍しい犬は、有力者間の贈り物などにも用いられた。

島津家臣・上井覚兼と南蛮犬

 薩摩島津氏の重臣・上井覚兼が記した『上井覚兼日記』によれば、天正十二年(1584)十月、覚兼は肥前の有馬鎮貴から「南蛮犬」を預かっている。この犬を見るために島津一族の島津義虎や島津忠長をはじめ、多くの見物衆が集まった。『日記』にもあるように、かなりの「珍物」であったことがうかがえる。

 覚兼は同年十一月、この犬を主君・島津義弘に献上し、犬を実見した義弘も喜んでいた。しかし占いの結果、殿中での飼育はよろしくないということとなったため、その日の晩に覚兼が飼育するようにと返却されている。

 犬を贈った有馬氏は、口之津などで南蛮貿易を行っていた。南蛮犬も来航したポルトガル船から入手したものと思われる。実際、16世紀末の南蛮屏風にも、犬をひいたヨーロッパ人が描かれており、彼らが日本に犬を持ち込んでいたことが分かる。

猟犬の需要

 慶長十八年(1613)、平戸に来航したイギリスの司令官ジョン・セーリスは、ロンドンの東インド会社に宛てた書簡で、平戸の松浦氏への贈物について意見を記している。武具や鷹道具などとともに、立派なマスチーフ一頭、ウォーター=スパニール一頭、グレイハウンド一頭などが良いとしている。

 当時、日本ではグレイハウンドなどの狩猟に用いる猟犬の需要が高かった。松浦氏をはじめ紀州徳川氏や福岡黒田氏らが、これら西洋の大型犬をオランダに注文していることがしられる。

南蛮犬ブリーダー

 慶長十一年(1606)正月、島津義弘福島正則に対し、いつぞやご所望の「呂宋犬」が子どもを産んだので、「赤ぶち一疋、黒ぶち一疋」を差し上げるので、気に入っていただけたら有り難い、と述べている。「呂宋」はフィリピンのルソン島のことであり、当時スペインの支配下にあった。「呂宋犬」は、スペイン原産の犬である可能性がある。そして島津義弘は、この呂宋犬を繁殖させていた。

 これ以前の文禄三年(1594)、関白豊臣秀次が義弘の留守衆に対し、義弘の家中には「鹿喰犬」が多数いると聞いているので、こちらの使者に渡すように、と命じている。「鹿喰犬」とは、大型動物の狩猟に適した猟犬と考えられる。

 慶長年間、前関白・近衛前久も島津氏から犬をもらっていた。前久は手紙の中で、島津氏からもらった犬は、一段とよく(獲物を)噛むので秘蔵している、と伝えている。先述の鹿喰犬や、前久の犬もまた、呂宋犬のように島津氏が繁殖させた南蛮犬であるかもしれない。

参考文献

  • 谷口研語 『犬の日本史』 PHP新書 2000
  • 桐野作人・吉門裕 『愛犬の日本史 柴犬はいつ狆と呼ばれなくなったか』 平凡社 2020

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イタリアン・グレーハウンド from写真AC