戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ルクレシア るくれしあ

 ポルトガル・セルパの日本人奴隷。日本に来航したカピタンモール、ロッケ・デ・メロ・ペレイラに仕えた。ペレイラの死後、他の日本人奴隷とともに相続人に与えられた。

ポルトガル国境の町の日本人奴隷

 1604年、スペインとポルトガルの国境に近い町セルパの領主ロッケ・デ・メロ・ペレイラが死去した。ペレイラはかつて、日本-マカオ間の航路のカピタン・モールを務めた経験がある。ペレイラの遺言により、彼の財産は相続人たちに与えられることになった。その譲渡リストの中に、7人の日本人奴隷が含まれており、その中の一人がルクレシアだった。

 7人のうち、5人は女性、残る2人は男性であった。ルクレシア以外の女性たちの名前は、ウルスラ、エレナ、セシリア、イサベル。男性の名前はマティアスとルイスといった。その他にももう一人、インド方面へと逃亡したとされるアントニオという名の男性の日本人奴隷がいた。

日本人奴隷の原価と市場価格

 ルクレシアら7人の日本人奴隷の評価額は、総額31万レイスとされた。一人あたりでは、4万4285レイスとなる。これは当時ポルトガル国内で流通していた銀貨トスタンに換算すると、約443トスタンに相当する。

 ルイス・フロイスの『日本史』によれば、1588年、薩摩島津氏と豊後大友氏との戦闘で、多くの豊後領民が捕虜となった。島原や三会では、40名もの豊後から来た女子供が束になって売られており、値段は一人あたり「2、3トスタン」であったとある。

 日本で売買される奴隷の原価が3トスタンであったと考えれば、ポルトガルにおけるルクレシアらの400トスタン以上の価値というのは、およそ原価の100倍以上であったといえる。

 ルクレシアらは、ペレイラが直接日本から連れ帰った可能性が高い。しかし通常、奴隷は転売されながら移動していくので、遠くへ行けば行くほど、付加価値が加えられていったものと考えられる。

参考文献