戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

江良 主水正 えら もんどのじょう

陶氏被官。弘治二年(1556)四月、須々万沼城の戦いで討死した。実名は不明だが、天保四年(1833)に正司考祺が著した『豹皮録』には「江良主水隆綱」とみえる。

江良 昌泰 えら まさやす

陶氏被官。官途名は但馬守。陶興房の嫡子・興昌の偏諱を受けたとみられる。興昌死後は、興房の跡を継いだ隆房に仕え、奉行人として安芸国や周防国の支配に関わった。

南蛮酒 なんばんしゅ

南蛮(東南アジア)で製造された酒。琉球王国はシャム王国やマラッカ王国との貿易の中で、椰子などを原料とする酒を積極的に輸入していた。輸入された南蛮酒の一部は朝鮮や日本にも再輸出されていったとみられる。

琉球焼酒 りゅうきゅうしょうしゅ

琉球で製造された蒸留酒。1713年(正徳三年)成立の『琉球国由来記』では「米・粟・稷・麦を以って作る」とする。16世紀後半以降、琉球から薩摩島津氏への進上品にみえるようになる。島津氏はこれを「アワモリ」と称して徳川将軍家などへの贈答品とし…

渡邊 宗覚 わたなべ そうかく

豊後大友氏に仕えた石火矢技術者。仮名は三郎太郎。子に三郎右衛門、茂右衛門。主家滅亡後、徳川家康に召し出され、石火矢の鋳造を行った。

豊後筒 ぶんごづつ

豊後国で製造された鉄炮。豊後国は刀剣の生産地としても知られ、鉄炮製造のための技術的・資源的な素地に優れていた。豊後大友氏は、永禄年間には将軍足利義輝から鉄炮複製を依頼されており、豊後での鉄炮製造がよく知られていたことがうかがえる。

石火矢(豊後) いしびや

戦国期の豊後国では石火矢が製造されていた。豊後を領国とする大友氏は、貿易を通じて倭寇やイエズス会(ポルトガル)勢力から石火矢技術を得たとみられる。大友氏滅亡後、その人材と技術は徳川家をはじめ各大名家に流出した。