若狭国で生産された茶。小浜の明通寺は相当規模の茶園を有し、同じく小浜の西福寺も時の領主から茶園の安堵を受けていた。高浜日置の大成寺の「大成寺文書」からは、若狭国から京都へ茶を送った事例もみることができる。
明通寺の茶生産
福井県小浜市門前にある真言宗の明通寺は、室町期には相当規模の茶園を有していた。
応永二十七年(1420)四月二十八日付「明通寺茶園出茶配分注文」には、明通寺が寺内の25坊および3公(「小納言公」「伊勢公」「兵部公」)の計28坊舎から徴収する茶の袋数が定められている。なお、文書には「但四十クロヲ一袋宛配分」とあり、「クロ」が畔(あぜ)を意味している場合、畔状に植えた茶列40列分の収量を一袋としていたとみられる。
各坊舎からは本寺である明通寺に収量のおよそ4分の1が収納され、その合計は合計は62袋にのぼる。「此日記にてめさるへく候、あまり候ハんとする分ハ年行事可有御預候」と書かれているので、各坊から決められた量の茶を寺家に出し、余った茶はとりあえず年行事*1によって管理された。
そして納められた茶は、少なくとも明通寺の仏事や帰依者・参詣者などのために消費され、残りの4分の3は茶園を経営している各坊舎の取り分として消費されていたと考えられる。
また「明通寺茶園出茶配分注文」には、10の坊舎が「新茶園」を有していたことがみえる。例えば、坊舎の一つ「岩本坊」の収量は26袋であったが、このうち「新茶園」の収量は4袋3分の2であり、新園の在所は「前谷 是ハ岩本坊本ゑんの上」と記されている。
前述の「但四十クロヲ一袋宛配分」の表記から、明通寺の茶園は各僧坊の開発地の周囲に造成された畔畦(=クロ)にあったと推定されている。新茶園はこれら畔畦茶園を拡張することで形成されたとみられる。
弘治二年(1556)、明通寺は梵鐘を鋳造することになり勧進を募ったが、その際に「明通寺鐘鋳勧進時入目下行帳」が作成され、この中に「百文 茶壱斤半代高浜逸見殿廿袋多門院宿なとへ」と記されている(「明通寺文書」)。つまり高浜の有力国人逸見氏に「茶壱斤半」が贈られており*2、明通寺坊舎が梵鐘鋳造費用を募る際に自家製の茶を配布していたことがうかがえる。
西福寺の茶園
小浜市青井にある時宗の西福寺では、天文七年(1538)以前、若狭守護武田信豊に年頭の挨拶として「宇治茶一斤」と「樽代卅疋」を贈ったことがあった。宇治茶は貴重な最上級の茶であり、信豊は「珍来」として喜んでいる(「西福寺文書」)。
この西福寺も茶園を有していた。浅野長政が若狭を支配していた天正十五年(1587)から文禄二年(1593)の期間に西福寺に対して発給された文書に下記のようにある。
当寺屋敷伐採竹木事、堅令停止候、并樹木茶園等、如前々相違有間敷候、若理不尽之族有之者、此方へ可被申聞候、堅可申付、恐々謹言、
「如前々相違有間敷候」と記されていることから、旧来から西福寺茶園が時の支配者層の安堵を受けていたことがうかがえる。これらのことから、小浜西福寺は若狭での茶の生産・供給源としての役割を担っていた可能性があるという。
京都へ茶を送る
福井県大飯郡高浜町日置にある臨済宗建仁寺派の大成寺は、14世紀に創建されたとも伝えられるが、諸堂の焼失に遭ったのち、武田元光が天文十八年(1549)に伎西堂(大成寺伎公)を開山に招いて再興したとされる。
年未詳七月十一日、若狭高浜の領主で武田家臣の逸見経貴は、在京中の大成寺伎公に宛てた書状で若狭国や大成寺の状況を報告しているが、その返し書きに以下のように記している(「大成寺文書」)。
返々此日てり何かたも同前候、何事もはてたる躰にて候、諸事御在京も御望も難調候、勝事迄候、又ちやの事承候間、先々古茶二袋上申候、新茶をはたはい申候、乍去新茶入候ハゝ、重而上可申候、大成寺内用心ふしん(普請)以下堅申付候
この年は日照りが続いたことで京都でも茶が不足したらしい。伎公の要請を受けた逸見経貴(大成寺を管理していた)は「古茶二袋」を京都へ送った。あわせて経貴は新茶も入手したとして、新茶が入り用であれば追送すると伝えている。
経貴は他の箇所で「ちやせん(茶筅)二ツ斗駿(逸見駿河守昌経)へ被遣可然候」とも記しており、逸見氏と京都の喫茶文化の交わりがうかがえる。
石山村の山茶
天正十六年(1588)二月、福井県おおい町石山にある真言宗の浄土寺に対し、小老与七郎という人物が石山村の「山茶」を寄進するとして以下の文書を発給している(「浄土寺文書」)。
石山村之内山茶之儀者伝右ニ申聞候へハ、浄土寺へ一円二令寄進之旨、則拙者ニ心得可申上候通候条、扨々如此候、其御心得可被成候、恐々謹言、
「伝右」は浅野伝右衛門尉宗政であり、浅野次吉とともに若狭国の現地支配を担当した。小老与七郎は浅野宗政の許可を得て「石山村之内山茶」を浄土寺に寄進したことが分かる。
「山茶」は平地で栽培された露地茶とは異なり、主に寺院後背地などの、ある程度遮光される里山のような地域で栽培された茶と推定されている。この寄進行為以前から石山村の領民たちの日常生活の中で「山茶」が生産・消費されていたことがうかがえる。
上根来村の上茶
上根来村(小浜市上根来)は遠敷谷の最深部の標高300メートルの山腹斜面に位置し、南に進むと針畑峠から近江国朽木谷に連絡する。慶長十七年(1612)五月二十二日付「上根来村小物成請状」が残っており、その冒頭には以下のように記されている。
遠敷郡上ねこり(根来)村小物成の事 一、五斤壱両 上茶
五斤一両の上茶が、小物成として把握されていることが分かる。
また、22年後の寛永十一年(1634)九月十四日付の中畑村・段村(両村とも上根来村内)指出覚には、寛永八年(1631)分として「一、茶五斤一両 此銀子拾匁二分也」と茶五斤一両分が銀高で記されている。
上根来村の茶は、山村の傾斜地を利用、開発した茶園で生産されたことが想定されている。加えて当該地域の茶葉が、商品として市場にもたらされていた可能性が指摘されている。
参考文献
- 野澤隆一 「中世後期若越地域の茶」(『国史学』234 2022)
- 佐藤圭 「中世若越の茶園と茶」( 『若越郷土研究』41の3 1996)
