阿波国最南部の宍喰川河口部に位置する港町。中世、同河川上流域で伐り出される木材の積出港として栄えた。
宍喰荘の年貢
中世、高野山の寺領荘園・宍喰荘からは、年貢として海産物や林産物が納められていたとされる。それらは、宍咋の港から積出され、海路で紀之湊などを経て高野山に運ばれていたと思われる。
木材を畿内に運ぶ
文安二年(1445)における関税台帳『兵庫北関入舩納帳』によれば、この年、20回の宍咋船籍船の兵庫北関への入港が確認される。その積荷はすべて材木、榑(規格化された木材)であり、1艘がだいたい100石から150石前後を運んでいる。また、このうち刑部四郎が船頭の1艘は「檜榑」を運んでいる。
宍咋の町場と津波被害
このように宍咋は室町期、木材の積出で賑わっていたとみられる。「円頓寺旧記」によれば永正九年(1512)以前は宍喰川をはさんで南北両町があり、当時は南町が主体で栄えていたという。
しかし同年八月、宍咋は大津波に遭って大きな被害を受けた。特に南町は1戸も残らず流失し、屋敷地もことごとく川沼と化してしまった。このときの死者は3700余と伝えられる。それまでの宍咋が、大きく発展した町場を形成していたことがわかる。
生き残った人々は北町に集まり、領主・本木(藤原)氏のもとで宍咋の町の再建にあたったとされる。「宍喰浦旧記」によれば、このとき海辺の大松原などから松を伐りだして、建築用材にあて、総家数・1805軒を再建したという。