戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

平嶋 ひらしま

 阿波国南部の大河川・那賀川河口部北岸に位置する港町。同河川流域や周辺海域で産出される木材や海産物などの物資の中心的な積出港として栄えた。

木材の積出港

 元応二年(1320)八月、鴨御祖社(下賀茂社)は那賀川流域の同社領・大由郷に、社殿造営ための用材を切り出して「河尻」まで運搬するよう命じている。この材木は、海路で京都に運ばれたとみられる。鎌倉期には、那賀川河口に畿内に向けての木材積出港が成立していたことが分かる。

室町期の平嶋船の活動

 文安二年(1445)の関税台帳「兵庫北関入舩納帳」によれば、この年、平嶋船籍の船が計21回兵庫北関に入港している。その積荷は、アラメ(海藻)140石の他は、全て60石から160石の材木ないし榑であった。またこの内七回は、材木に檜が含まれている。

 先述の鎌倉期の事例から、平嶋船が運んだ木材もやはり那賀川流域産と推測される。高級木材の檜を含む木材が、平嶋から畿内に向けて出荷されていたことが分かる。

平島公方の居所

 戦国期、平嶋郷古津には阿波南部の有力領主・新開氏の家臣(古津氏)がおり、平嶋は那賀川流域に勢力を持つ同氏の外港でもあったと思われる。天文三年(1534)、幕府十代将軍義稙の義子・義冬が古津に移り、以後子孫がここに定住して「平島公方」又は「阿波公方」と呼ばれるようになった。

 義冬の子・義栄は、三好氏に擁立されて十四代将軍ともなっった。畿内への復権をねらう「平島公方」の拠点として、平嶋が選ばれたことは注目される。

参考文献

  • 阿南市史1 原始古代中世編』 1987