奄美大島南部の焼内湾にあった湊。現在の鹿児島県大島郡宇検村宇検。宇検湊を含めた焼内湾内にある名柄湊・佐念湊などの湊の総称として焼内湊とも呼ばれる。16世紀、このエリアには琉球王国により地方行政単位として「屋喜内間切」が設置されていた。
奄美大島南部の良港
元禄九年(1696)の元禄国絵図「琉球国大島」では、「焼内湊」(宇検)*1について以下のように記されている。
此焼内湊、入三里広サ三十町、深サ三十尋、船繋リ場何風ニ而も自由、大船二百艘程繋ル
元禄国絵図「琉球国大島」には南の西古見湊の説明も記されているが、その規模は「大船四五艘程繋ル」ほどであり、焼内湊(宇検)の方が圧倒的に優れた港であったことがうかがえる。
宇検湊および焼内湾は、薩摩と琉球を結ぶ航路の寄港地でもあった。慶長十四年(1609)五月、琉球侵攻を終えて薩摩に帰国する総大将の樺山久高・平田増宗の船は、同月十七日に琉球北部の運天を出航したとみられ、途中で焼内湾に入り、出発日は不明だが同月二十四日に薩摩山川港に入っている(『琉球渡海日々記』)。
また琉球国王尚寧を乗せた船も五月十七日に運天を出て、宇検に寄港。二十一日に宇検を出て、二十四日に薩摩山川港に着いている(『 喜安日記』*2)。
なお島津氏による琉球侵攻に従軍した高山衆市来孫兵衛らの船は、五月十七日に運天を出航し、奄美大島に寄港せず、「十九日午之刻」にトカラ諸島の中之島に「取り付い」た*3。この時は運天から中之島まで寄港地のない「直乗」で、「順風強く」「船酔の人数多」という状況だったことが『琉球渡海日々記』に記されている。スピードに比例して船も大きく揺れたことがうかがえる。市来孫兵衛ら帰路の島津軍は運天から一気にトカラ諸島に到達しており、丸二日で約400キロを帆走したことになる。
これらのことから、琉球から薩摩に向かう航路には、時間は短いが海上が荒れやすい直乗航路と、時間はかかるがリスクの低い奄美大島ルートがあった可能性が指摘されている。乗船者の地位や渡航目的に応じて、それぞれの航路を使い分けていたとみられている。
なお前述の尚寧らは江戸に赴いたのち、慶長十六年(1611)九月二十四日、卯時(午前6時)に薩摩山川を出船し、口永良部島を経由して十月二日、申時(午後4時)に「大島うけん(宇検)」に停泊。一行は「行宮」をしつらえさせたという。宇検を十月九日辰時(午前8時)に出た後は、同日に徳之島の亀尾(亀津か)に着き、同月十八日に亀尾を出て沖永良部島を経由して十月二十日に那覇に到着した(『喜安日記』)。
倉木崎海底遺跡
宇検湊の西、焼内湾の湾口に位置する枝久志島の北側の海峡からは倉木崎海底遺跡がみつかっている。遺跡が位置する海峡は長さ約2000m、幅250〜600m、水深約3mで海底は比較的浅く、白砂の海岸に囲まれている。海底には色とりどりの珊瑚が豊かに群生しているという。
遺跡から採取された遺物の内訳は、青磁が1383点(その内龍泉窯系のものが1173点、同安窯系のものが210点)で、白磁が189点、青白磁が20点、黒釉天目碗が1点、黄釉陶器が14点、褐釉陶器716点、土器2点となっている。量的に最も多いのは龍泉窯系の青磁碗で1160点、次いで褐釉壺の369点とされる。遺物の特徴として、破断面が比較的鋭利で、完形品が少ないことが挙げられている。
出土遺物は、12世紀後半から13世紀初頭の中国製の陶磁器で、種別では青磁の碗・皿が多く、次に褐釉陶器の壺・甕・鉢・白磁の碗・皿・四耳壺、青白磁の碗・皿・合子・小壺など。生産地としては浙江省の龍泉窯系、江西省の景徳鎮窯系、福建省建窯系、同安窯系、磁竈窯系など中国南部の製品が確認されているという。
時代が1世紀前後に限られることや、遺跡の近くの民家から中世の「碇石」が発見されたこと、調査で天目碗がみつかっていることなどから、日本に向かった貿易船が何らかのトラブルで沈没した可能性が考えられている。
参考文献
- 渡辺美季 「『琉球国図』の薩琉航路 : 『琉球御渡海日記』から考える 」(『国立歴史民俗博物館研究報告』223 2021)
- 黒嶋敏 「前近代の日琉航路覚書」(『東京大学史料編纂所研究紀要』第33号 2023)
- 「倉木崎海底遺跡」(鹿児島県上野原縄文の森 WEBサイト内 鹿児島県立埋蔵文化財センター > 先史・古代の鹿児島 > 大島地区)
https://www.jomon-no-mori.jp/bunkazai-center/senshikodai/ooshima/


『元禄国絵図』は元禄九年(1696)に作成が命じられ、同十五年(1702)までには完成していたとされる。
国立公文書館デジタルアーカイブ