戦国日本の津々浦々 ライト版

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中納言(彦胤入道親王乳母) ちゅうなごん

 伏見宮家で養育された彦胤入道親王の乳母。大永七年(1527)に伏見宮家で行われた鞠会において、鞠足をつとめたことが知られる。当時、女性の鞠足は珍しかったとみられる。

伏見宮家の鞠会参加者

 戦国期の公家山科言継の日記『言継卿記』の大永七年(1527)八月十六日条に以下のような記述がある。

夕方伏見殿へ参候、御鞠可有由候間祗候仕候、御人数親王御□(貞敦親王)・青蓮院宮(尊鎮入道親王)・梶井宮(彦胤入道親王)・三条亜相(公頼)・鷲尾前中納言(隆康)・町右兵衛佐(顕量)・予(山科言継)・白川少将(兼親)・中納言等也

 この日、山科言継は伏見宮家で行われた鞠会(蹴鞠の会)に参加した。『言継卿記』には言継をふくむ鞠足(蹴鞠の蹴り手)が記されているが、最後に「中納言」という人物が挙げられている。

 「中納言」を中納言の官職を有する公卿と理解した場合、官職の上下からして、記事の登場順は「鷲尾前中納言」の前後になるが、「中納言」の登場順序は最後となっている。このことから、この「中納言」は公卿ではないことがうかがえる。

 同じ年の十月三日、言継はまたも伏見宮家の鞠会に参加している。『言継卿記』の同日条には以下のようにある。

伏見殿へ参候、御鞠あり、人数梶井殿(彦胤入道親王)・三条大納言(公頼)・菊亭大納言(公彦)・鷲尾前中納言(隆康)・持明院宰相(基親)・町右兵衛佐(顕量)・予(山科言継)・中納言 梶井殿御乳母 等也、暮々罷帰了、

 この日の記述でも「中納言」の登場順序は最後となっており、さらに「梶井殿」こと彦胤入道親王の「御乳母」と記されている。このことから、「中納言」が女性の鞠足であり、彼女が伏見宮家の鞠会において男性の鞠足とともに鞠を蹴っていたことが分かる。

彦胤入道親王とその乳母

 「中納言」は彦胤入道親王の乳母をつとめた人物だった。彦胤の父は後柏原天皇であり、生母は後柏原に仕えた典侍庭田源子(新典侍局)。生年は永正六年(1509)七月とみられ*1、誕生直後の同年八月には梶井門跡(大原三千院)尭胤法親王の附弟(法統を受け継ぐ弟子)となって梶井門跡へ入室することが定められた。

 彦胤の誕生直後から伏見宮家で養育された*2。公家の鷲尾隆康の日記『二水記』の永正十四年(1517)十一月二十五日条は、彦胤について「平生被預申伏見殿」と記している。

 永正十六年(1519)に梶井門跡尭胤法親王が死去。翌永正十七年(1520)十一月、彦胤は親王宣下を受けて梶井門跡に入室した。法名は「彦胤」。

 彦胤の乳母であった「中納言」は伏見宮家で暮らし、梶井門跡入室以前の彦胤の養育を担ったとみられる。「中納言」とみられる女性が、『二水記』永正十七年十一月二十八日条にみえる。

一御装束・赤御服等、悉後日被遣御乳女許云々、後又各分給云々、

 梶井門跡に入室した彦胤が、「御装束・赤御服等」を「御乳女」のもとへ遣わした上で、これらを「各」へ分かち与えることになったという。この「御乳女」が「中納言」と考えられている。

伏見宮家と蹴鞠

 「中納言」が暮らし彦胤が養育された伏見宮家は、京都の蹴鞠文化を担った家であったという。

 彦胤が伏見宮家に預けられた頃の同家の当主は邦高親王。邦高が永正十三年(1516)六月に出家すると(「伏見宮御系譜」)、貞敦親王(邦高の皇子)が当主となる。なお、彦胤の師にあたる尭胤は邦高の弟であった(『系図纂要』)。

 邦高も貞敦も蹴鞠を嗜み、伏見宮家ではたびたび鞠会が行われた。彦胤が伏見宮家で暮らした永正六年から同十七年までの間、伏見宮家では鞠会が計32回行われたことが知られる。

 これらの会には当主の貞敦や、彦胤の異母兄にあたる青蓮院門跡尊鎮入道親王が鞠足として参加。公家衆では、鞠道(蹴鞠道)家の飛鳥井雅綱と同頼孝のほか、冷泉永宣、三条公頼、鷲尾隆康、持明院基規、庭田重親、高倉範久、甘露寺元長、歓修寺尚顕、万里小路秀房らが鞠足を務めたことも知られる。

 このほか、永正十五年(1518)五月十九日の鞠会では、近来では目にしないほど鞠が多く上がり、鷲尾隆康は『二水記』の中で「今夕数多揚、見物衆令褒美、近来之御会也」と記している。

 伏見宮家で養育された彦胤も蹴鞠を好んだ。彦胤が蹴鞠に参加した史料上の所見は、永正十八年(1521)二月二十七日の梶井門跡住坊で行われた鞠会とされる。高い蹴鞠技術を持っていたらしく、鷲尾隆康は「梶井宮(彦胤入道親王)御器用也」と評している(『二水記』大永二年六月十八日条)。

女性の鞠足

 前述のとおり、「中納言」は大永七年(1527)八月と十月、伏見宮家での鞠会で鞠足を務めていた。経験無くしていきなり鞠を蹴るのは難しいとされており、このことから、大永七年八月の伏見宮家鞠会以前にも、男性とともに鞠足を務めていた可能性が高いことが指摘されている*3伏見宮家において蹴鞠技術を習得したものとみられる。

 ただし16世紀の京都において、女性は鞠足として想定されていなかったらしい。鎌倉期の正応四年(1291)頃に成立した公卿飛鳥井雅有の蹴鞠書『内外三時抄』では、装束編で蹴鞠装束としての束帯、直衣、衣冠、布衣、水干、直垂に関する記載があるが、これらは男性の衣装であった。また身分序列と装束に関する記載もあるが、それも男性世界のそれと対応している。

 16世紀の飛鳥井家当主の一人である飛鳥井雅綱も、鞠道について以下のように語っていたという(「蹴鞠条々 雅綱卿聞書」)。

まりの時したくの事、御免の人は鞠の上と葛袴を可着、つねの人はすハふを本とすへし

 鞠会の際、「鞠の上」(鞠水干)と葛袴の着用を許された者は、この二つの装束を着用してもよいが、そうではない者は、「すハふ」(素襖)を着用せよという意味と考えられている。鞠水干も素襖も男性の衣装であるから、飛鳥井雅綱も男性のみを鞠足として想定していたことがうかがえる。

参考文献

  • 尾下成敏 「戦国時代の鞠足「中納言」について ―十六世紀の女性と蹴鞠―」(『京都橘大学 女性歴史文化研究所紀要』32 2023)

【月次風俗図屏風】 16世紀末
6枚目:犬追物と蹴鞠
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-11090?locale=ja

『二水記』永正十七年十一月二十八日条
東京大学史料編纂所 編 『大日本史料 第9編之11』』
国立国会図書館デジタルコレクション

『二水記』永正十七年十一月二十八日条
東京大学史料編纂所 編 『大日本史料 第9編之11』』
国立国会図書館デジタルコレクション

*1:彦胤の没年は天文九年(1540)五月。享年32歳。

*2:永正六年閏八月二十五日、伏見宮家を訪れた公家三条西実隆は生後二か月ほどの彦胤を懐に抱いている(『実隆公記』)。

*3:山科言継が日記『言継卿記』で「中納言」が鞠足を務めることに関する違和感を一切記していないことから、山科言継も「中納言」の鞠会参加を珍しいことと認識していなかったことがうかがえる。