石見国益田を本拠とする益田氏が所持していた茶壺。千利休から高く評価され、東山御物に認定されたという。益田元祥から毛利輝元に進上されたが、後に輝元が石田三成に進上したため、関ヶ原合戦の際に佐和山城で失われたとされる。
真壺(益田壺)の由緒
江戸時代前期、益田氏ではこれまで毛利氏に進上した道具のリストである「進上道具覚書」を作成する(「益田家文書」860)。この「進上道具覚書」の「眞壺」の項に以下のように記されている。
東山殿ヨリ先祖拝領、数代相嗜置、千利休へ見せ候へハ、殊外褒美ニ而、其比太閣秀吉御所持之面影之壺よりは見事候、東山殿御物紛有之間鋪候、秘蔵可仕之通被申之由、 輝元様被聞召上、元清を以被成御覧度之通、牛庵へ被成御意候付而、則備 高覧候、自然御気ニ入候をハ、差上度之由申候處、御祝著被成候条、御留置可被成候通、被成 御書、相嗜置候、其以後右之壺、利休へ被入再見候得は、㝡前も致一覧、無比類壺に而候、名無之事ハ有之間敷由、被申候付、此間者益田与申者所持仕候、已前之名ハ無御存由、御うけあひ被成候得ハ、益田壺与名を御付候旨、可然と利休被申候付、被任其意候、然處石田治部少、右之御壺、安国寺を以頻被致所望、御理も難被為成、彼方へ贈投被成、其後関ヶ原御軍之時、佐保山に而滅申之由候事、
江戸前期の益田氏は、「進上道具覚書」の中で「眞壺」(益田壺)の由緒を以下のように説明している。
まず「眞壺」は、益田氏の数代前の祖先が「東山殿」(足利義政)から拝領した品であったとされる。これを千利休に見せたところ、「太閤秀吉が所蔵する面影茶壺よりも見事であり、東山御物に間違いないので秘蔵したほうが良い」とまで言われ、格別に高い評価を得た。
このことを聞いた毛利輝元は、叔父の穂井田元清を通じて牛庵(益田元祥)に壺を見たいと要請。益田元祥は輝元が気に入ったのなら進上する旨を申し出たので、輝元はこれを喜び、壺を自身の手元に留め置くこととした。そして再度この壺を千利休に鑑定してもらったところ、「無比類壺に而候」と評価され、以前は益田氏が所持していたことから「益田壺」と命名された。
その後、石田三成が安国寺恵瓊を通じて懇望してきたので、益田壺は輝元から三成に贈られた。しかし関ヶ原合戦で三成が敗れた際、近江佐和山城(石田三成の居城)で益田壺は滅してしまったという。
益田氏が所持した華南の壺
益田壺は佐和山城で失われてしまったため、どのような壺だったかは分からない。しかし「進上道具覚書」では「眞壺」とされているので、いわゆる「ルソン壺」だった可能性がある。ルソン壺はフィリピンのルソン島からもたらされた茶壺だが、実際には中国南部で生産された褐色の釉薬がかけられた壺のことを指す。
益田氏は中国南部で生産された壺を実際に入手していた。益田氏と関わりが深い萬福寺(益田市東町)には中国南部の華南地方で16世紀末から17世紀初頭に製作されたと推定される華南三彩壺(華南三彩貼花文五耳壺)が伝わっており、この壺は寛永二十一年(1644)二月の「益田元堯諸道具譲渡目録」に「小嶋葉茶壺」としてみえる。
「益田元堯諸道具譲渡目録」の品々は元堯が祖父元祥から譲られたものであることから、益田元祥が「眞壺」(益田壺)以外にも中国南部産の茶壺を所持していたことが分かる。また同じく益田氏の崇敬が厚かった瀧蔵権現の別当勝達寺にも、華南地方で17世紀前半に生産されたとみられる華南三彩牡丹文壺が所蔵されていたという。
参考文献
- 佐伯昌俊 「港湾遺跡から見た日本海交易〜15・16世紀を中心に〜」(『平成30年度 石見銀山遺跡関連講座記録集』 島根県教育委員会(文化財課世界遺産室) 2019)
- 佐伯昌俊・村上勇 「島根県益田市・染羽天石勝神社所蔵の華南三彩系牡丹文壺」(日本貿易陶磁研究会 編 『貿易陶磁研究』第42号 2022)
- 中司健一 「益田地域に現存する益田家伝来品について」(角野広海・的野克之・森かおる 編 『図録 石見の祈りと美−未来へつなぐ中世の宝−』 島根県立石見美術館 2025)


益田氏の居城だった七尾城の二の段北端では、喫茶専用の天目茶碗が出土し、さらに砂利の化粧敷きの区画や池状の土坑から茶庭としての庭園の存在が想定されている。
益田元祥は天正十一年(1583)に下城するまでは、この城に居住していた。