戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

織田 加爾 おた かに

 織田信長の次男・信雄の娘。母は北畠具教の娘。同母兄に秀雄がいる。羽柴秀吉の養女となり、「小姫君」と呼ばれた。法華寺本『織田系図』では「おかに」、『寛永家系図』は「某 加爾」と記載されている。

羽柴家の家族として

 加爾は、天正十四年(1586)頃に生まれた。秀吉の養子となったのは二、三才頃で(『多門院日記』)、正室北政所のもとで育てられた。秀吉は加爾を「おひめ」「おひめごもじ」と呼んでいる。

 天正十五年(1587)十二月、秀吉は「ちく」という女房*1に宛て、近日大坂城に戻るので、「おひめ五もし」(加爾)と「きん五」(金吾。秀吉養子の秀俊。)にも伝えておいて欲しいと依頼している(『豊太閤真蹟集』)。当時の加爾は、秀俊とともに大坂城にいた。また秀吉が大坂城の子供たちと過ごすことを、楽しみにしていたことがうかがえる。

 天正十六年(1588)七月、秀吉の母・大政所の病状が重くなっていた。秀吉は大政所に宛てた手紙で、「おひめ五もし」を気慰みに留めておくよう勧めている(『豊太閤真蹟集』)。加爾は、大政所を見舞うために上洛していたのだろう。大政所にとっても、加爾が心休まる存在だったと思われる。

徳川秀忠との婚儀

 天正十八年(1590)正月二十八日、聚楽第にて加爾と徳川家康の嫡子・秀忠(当時、十三才)との婚儀*2が盛大に催された。関東平定のあかつきには、秀忠を大名に取り立てることも、決まっていたという(『多門院日記』)。

  加爾の実父は織田信雄であるが、彼女と徳川秀忠との婚姻は、織田家と徳川家の縁組ではなく、あくまで羽柴家と徳川家の縁組という意義を強く持っていたとみられる。

 秀吉の実妹徳川家康に嫁した旭姫は、この年の正月十四日に死去しているので、しばらく病床にあったことが推測される。秀吉としては、関東出陣前に徳川家との関係を強化する必要があったが、実の娘はいなかった。

 このため実の娘同然に育てていた加爾を、養女として秀忠に嫁がせることで、両家の絆としようとしたと考えられる。

聚楽第に移る

 関東遠征が始まると、加爾は聚楽第北政所のもとに移った。当時の聚楽第には、大政所の他に鶴松(秀吉の子)、金吾(後の羽柴秀俊)らが住んでいた。

 北政所は陣中の秀吉に対し、加爾や鶴松、金吾ら子供たちの様子を伝えたり、彼ら名義の贈り物を行なっている。秀吉も子供たちからの心遣いを、大変喜んでいたことが北政所宛の手紙から分かる。

 一方で加爾の父である織田信雄は、関東平定後の秀吉の国替命令を拒否し、所領を没収されて配流された。八月三日には、京都の信雄邸が焼失した(『多聞院日記』)。この頃、加爾は病気を患ったらしく、気遣う手紙を秀吉が送っている(『太閤書信』)。

夭折

 天正十九年(1591)正月、加爾は鶴松や金吾らとともに、変わらず聚楽第に住んでいた(『兼見卿記』)。しかし同年七月九日、死去した。

 『時慶卿記』は、「殿下ノ御養女」が九日の夜十時頃に他界したと記している。享年は六歳ないし七歳とみられる。

 同月十七日、鶴松が聚楽第を出て大坂に向かい、いったん淀城に入った(『時慶卿記』)。既に発病していたとみられる。八月五日、鶴松も淀城で死去した。同時期、北政所も不調であったという(『時慶卿記』『兼見卿記』)。加爾と鶴松の死因を、伝染性の病気とする見解もある。

 加爾の死からほぼ1年後の文禄元年(1592)七月六日、加爾の実母(織田信雄室)も伊予道後*3にて亡くなっている。

死後の法要

 加爾は北政所によって懇ろに弔われ、一連の法要は、京都の天瑞寺(秀吉が大政所の為に創建した寺院)で営まれた。法号は「甘棠院殿桂林宗香禅定尼」。

 文禄二年(1593)七月九日の三周忌の施主は、「大坂城寄住」の人物が務めた(『拈香法語』)。あるいは加爾の実父・常真(出家した織田信雄法名)ではないかと言われる。

参考文献

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大阪城天守閣からの風景 from写真AC

*1:大坂城の奥向きを取り仕切っていた。

*2:加爾はまだ幼かったため、事実上の輿入れは行われなかった。

*3:織田信雄は、天正十九年(1591)五月、伊予道後に渡り、石手寺に仮寓している。加爾の母も同行していたものと推定される。