戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

藤原 宗親 ふじわら むねちか

 厳島神主。幼名は長松丸。前神主・藤原教親の子。興親の兄。

父教親の後見

 文明五年(1473)正月、宗親とみられる藤原長松丸が、厳島社恒例の年等祈祷巻数を将軍家に進上している。この頃には、父・教親から神主職を継承していたと推定される。

 文明七年(1475)八月、神主・藤原長松丸は「掃部頭」(教親)とともに刀一腰を厳島社に奉納している。父の後見を受けていることが窺える。

教親の神主職復帰

 長松丸は文明九年(1477)にも将軍家に年等祈祷巻数を進上している。しかし、文明十一年(1479)七月、厳島社小行事職の補任が教親によって行われている。速田社の鐘の銘写にも「文明十一年己亥十一月廿七日 願主 神主藤原教親」とある。このことから、この時期は父・教親が神主に復帰していることが分かる。

 この理由は不明だが、応仁・文明の乱に際して教親は西軍に属しており、厳島社への東軍の圧迫を回避するため、一時的に長松丸に神主職が譲っていたとも考えられている。

宗親の神主職復帰

 その後、再び神主職に復帰したらしく、明応二年(1493)三月、廿日市の洞雲寺に寺領を寄進している。これは同寺が足利義政足利義尚の二将軍の位牌を安置していたことによる。

 もう一つの理由として、宗親が洞雲寺を両親である「徳叟」、「受慶」の菩提所に定めたことがあった。ここから宗親の父・教親がこの時には出家していたことを知ることができる。

長屋氏を継ぐ

 「譜録」長屋藤兵衛に収録される長屋氏系図によれば、宗親は伯父・長屋泰親の養子となっており、後に長屋氏を継いでいる。神主職は弟の興親が継いだ。

参考文献

  • 廿日市町史 通史編 上』 1988

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宗親が将軍や両親のために寺領を寄進した洞雲寺。