筑前宗像氏当主。近江権守。宗像氏続の子。弟に千代松丸。宗像正氏の娘を娶ってその猶子となり、宗像氏の家督を継いだ。後に周防山口に出仕し、名を黒川隆像と改めた。
宗像氏の家督相続
天文十六年(1547)頃、大内義隆の意向により黒川隆尚(宗像正氏)の猶子となり、「社役武役」の沙汰が一統して氏男に相続された(「嶺文書」)。宗像社大宮司職も、隆尚から氏男に譲られたとみられる。宗像氏続と黒川隆尚は大宮司職をめぐって長年争っており、これを収めたい大内氏の思惑が背景にあったといわれる。
氏男の養父となった黒川隆尚は、天文十六年(1547)後七月十三日、大内氏奉行人に対し、氏男と実子の鍋寿丸にそれぞれ「家人等当知行」を相違なく支配して義隆へ個別に奉公するよう申しつけた旨を伝えている(「宗像神社文書」)。
しかし天文十六年から既に割分地をめぐって氏男方と鍋寿丸方の相論が勃発していたらしく、天文十八年(1549)八月段階でも解決していなかった(「宗像神社文書」)。
山口への出仕
天文二十年(1551)四月、大内義隆が、宗像宗繁を太宰府宣で大宮司職に補任した(「宗像文書」)。この宗繁の立場は、よく分かっていない。氏男方でも隆尚・鍋寿丸方でもない、中立的な立場だったともいわれる。
時期は不明だが氏男は養父・隆尚と同じく山口に出仕し、大内義隆の偏諱を受けて黒川隆像と改名した。
大寧寺の変
天文二十年八月、大内氏重臣・陶隆房が大内義隆に謀反。隆像は冷泉隆豊らとともに最後まで義隆に従い、九月一日に長門国大寧寺で自害した。対立する鍋寿丸の母(隆尚の後家)が陶隆房の姪であるため、隆房が実権を握れば、自身の地位が危うくなるとの判断があったともいわれる。
隆像死後、鍋寿丸とその母は筑前国宗像に強行入部し、陶隆房の勢力を背景に宗像氏家督相続を目指す。この過程で隆像の妻(隆尚の娘)やその母(隆尚の正室)をはじめ、実父の氏続、弟の千代松丸らが討ち果たされてしまう。