戦国期の廻船商人。就貞の父。仮名は新次郎。天文十九年(1550)に毛利元就から藤左衛門尉の官途を受けている。毛利氏に属し、同氏の御用商人として城道具や兵糧の輸送などにあたった。
長門・九州への海上輸送
永禄元年(1558)四月、毛利元就は児玉就忠に宛てて、二階藤左衛門尉の船が長門日山城の道具を間違いなく届けたが、帰る途中に賊船に遭って死傷者が出たことを伝えている。藤左衛門尉が自分の持ち舟で毛利氏の物資輸送を担当していたことが分かる。
元就は永禄五年(1563)十一月にも、豊前松山への兵糧輸送を二階藤左衛門尉に重ねて申し付けるよう兼重元宣と平佐就之に命じている。井上就重に対して二階藤左衛門尉の船への馳走を申し付けるように命じた書状も残されている。
この中で元就は、「一段辛労候」とも述べている。藤左衛門尉は、かなり頻繁に毛利氏の御用を務めていたとみられる。
毛利氏分国中諸関での通航料免除
一方で藤左衛門尉は、毛利氏の物資輸送にあたる対価として、毛利氏分国中諸関での通行料免除を認められていた。天正四年(1576)七月、毛利氏の奉行人は藤左衛門尉の子の新次郎(就貞)に対し、「父藤左衛門尉」の特権であった「諸分国中諸関」の通行料免除を引き続き認めるかわりに、「船留」(織田方に対する海上封鎖)を油断なく行うことを求めている。
藤左衛門尉は毛利氏の御用を務めるかたわら、この特権を利用して海上交易にも携わっていたものと推定される。