戦国末期、廿日市町衆の一人に名を連ねた有力商人。厳島の対岸・大野を本拠地とする武士的商人・中丸氏の出身。
廿日市の有力者
文禄五年(1596)、廿日市の極楽寺求聞持堂の本尊・虚空蔵菩薩の背面に刻まれた大願主・奉加衆ら20余名の中にその名が見える。中丸山城守は、廿日市を代表する有力者であったことが分かる。
穂井田元清に仕える
山城守は、廿日市・桜尾城主・穂井田(毛利)元清と関係が深かった。元清は、対織田戦争の前線である備中・猿懸城主も兼ねていた。天正十年(1582)前後、元清の指示のもと、兵糧調達にあたっているほか、当時最前線であった備中の連島や片島に在陣している。海上の軍事力・輸送力を担って活動していたとみられる。
慶長二年(1597)の元清死没後は、その嫡子・秀元に仕えた。その後、毛利支藩・長府藩の祖となった秀元に従い、長門国に移った。
参考文献
- 岸田裕之「人物で描く 中世の内海流通と大名権力」(『海の道から中世を見るⅡ商人たちの瀬戸内』) 広島県立歴史博物館 1996