戦国期、厳島の有力商人。土倉を経営し、金融業に携わったとみられる。
厳島神社への融資
元亀四年(1573)十月、厳島社家・野坂房顕に対して算用状が提出された。作成者は、新右衛門尉と「いせや浄念」、「こんたや宗節」の3名であった。 この算用状の内容は、厳島社家への貸金に関するものであった。「くらや」の屋号から、新右衛門尉と他2名が土倉を経営する商人であったと考えられている。
算用状の元利は、合計が1128貫余にもなっており、新右衛門尉らの営業規模の大きさがうかがえる。おそらく、厳島においても指折りの有力商人であり、その財力を持って厳島社の財政を支えていたとみられている。