戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

麻生 隆春 あそう たかはる

 大内家臣。土佐守。筑前の有力国人麻生氏の一族か。

大内氏の軍事指揮官

 麻生隆春は、大内氏被官を率いる軍事指揮官の一人だったとみられる。年未詳だが、麻生隆春の指揮下に副えられていた「阿武郡衆」に替わり、光井兼種*1や「周防衆」の一部が派遣されている。

 「阿武郡衆」は、石見国境に接する長門国阿武郡を基盤とする大内氏被官らの総称と推定される。彼らが出陣していたことから、隆春の軍勢は、この時石見国方面に展開していたのかもしれない。

佐東金山城

 天文十五年(1546)、金山城督の麻生土佐守(隆春)と右田隆康の両名が、厳島神社大鳥居建立にあたって安芸国佐東郡内の用木調達を命じられている(「大願寺文書」)。隆春が金山城督として、佐東郡支配を担当していたことがうかがえる。

 安芸武田氏の本城だった金山城は、天文十年(1541)に大内方によって陥落し、その後大内氏一門の冷泉隆豊*2が城督となっていた。隆春は隆豊の後任として旧武田領の支配を引き継いだのだろう。

 陶隆房が白井縫殿助(房胤か)に宛てた書状に「阿難(安南)郡府中七捨五貫 麻生土佐守先知行坪付別紙有之」とある(成簣堂蔵「白井文書」)。隆春が城領として、府中七十五貫の知行を有していたことが分かる。

 天文二十年(1551)八月、陶隆房による大寧寺の変が起こり、これに呼応して毛利元就佐東郡に侵攻した。当時の金山城番麻生与太郎、福島ら五、六十人は降伏して開城したという(「房顕覚書」)。麻生与太郎については不明だが、隆春と近い関係の人物と推測される。

参考文献

  • 和田秀作 「大内氏家臣安富氏の関係史料について(二)」 (『山口県文書館研究紀要』二七 2000)
  • 松岡久人 「中世末広島湾頭をめぐる大名の抗争と海上権」 (『大内氏の研究』 清文堂出版 2011)
  • 河村昭一 『安芸武田氏(中世武士選書)』 戎光祥出版 2010

*1:大内家臣。光井氏は大内氏の上層家臣安富氏の庶流。本拠は周防国熊毛郡光井保。

*2:大内家臣。冷泉興豊の子。安芸武田氏滅亡後、金山城督となる。大寧寺の変で義隆に従い討死した。