戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

麻生 家延 あそう いえのぶ

 筑前遠賀郡の国人・麻生氏の惣領・麻生家春の子。 兵部大輔。

父と兄の急死

 永享八年(1436)頃の六月、父の家春と兄の家慶が、少弐氏と大内九郎との合戦で討死する。永享十年(1438)九月、幕府の裁定で家延の叔父・弘家家督を継承することになる。しかし、麻生氏内部には不満がくすぶり、家延の蜂起へとつながったといわれる。

家延の蜂起

  文明二年(1470)十二月の「麻生弘家注文写」や文明三年三月の弘家宛の大内政弘書状などからは、文明二年六月十八日に、家延が親類や被官を語らい、大内教幸(道頓)と結び、赤間関で弘家の被官・蜷田大蔵丞を誅戮したことが分かる。

 当時の北九州は西軍主力として上洛した大内政弘の留守をついて、少弐氏、大友氏が侵攻し、政弘の伯父・教幸も反乱をおこすという情勢にあった。

降伏

 教幸の反乱が鎮圧された後も家延は抵抗を続けていたが、文明九年(1477)十一月に大内政弘が帰国すると事態が急変。翌年十月、家延の篭る花尾城は問田弘衡率いる大内軍の大規模な攻囲を受ける。

 家延は200以上の兵を率いて激しく抵抗した。しかし結局は遠賀荘代官職を条件にして、子の与次郎を人質とし差出し、城を明け渡して降伏することとなった。

連歌師との交友

 文明十二年(1480)、九州に下向した連歌師・宗祇は帰路の芦屋で「麻生兵部大輔」の歓待を受けている。この人物が、家延とみられる。

 また猪苗代兼載の連歌集『園塵』第二に「麻生兵部大輔蘆屋にて発句すへき侍しかは」とある。この「兵部大輔」も時期的に家延とみられる。家延の連歌師との交友が窺える。

参考文献