戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

能登府中 のと ふちゅう

 能登島に守られた天然の良港・七尾南湾に面する港町。中世能登の政治的中心として栄えた。さらに府中の北西約1キロには、所口湊が並立して栄えていた。

能登守護・畠山氏の本拠

 府中には暦応四年(1341)の段階で、守護所が置かれていた可能性を示す史料がある。能登守護・畠山氏は、15世紀後半以降に府中の山王社や、所口の気多本宮への寄進・造営に関与。府中と所口湊の両町への勢力浸透を進めている。

 文明九年(1477)十一月、畠山義統が京都から能登に移ると、府中では守護館や守護代屋敷、近臣の邸宅などの整備が進んだと考えられる。守護館*1は所口湊の後背にあったとみられる。湊から延びる街道を押えることで、畠山氏が所口の流通への賦課を目指したとも推定できる。

戦国期の戦乱と発展

 16世紀初頃、畠山氏本拠は七尾に移る。一方で、府中・所口は以後も繁栄した。天正五年(1571)、府中は上杉謙信の焼討ちを受ける。しかし、この翌年には三津屋藤右衛門尉と寺前重郷を願主として再興された。

 また所口も天文十九年(1550)から20年、戦火で寺庵・民家の全てが焼失したが、すぐに再建されたという。町や寺社の造営・再興が、商人・町人層を主体として行われていたことがうかがえる。

 天正十四年(1586)、所口の魚町には、年寄中の存在が確認できる。府中にも、戦国期に遡ることができる「かちや町」(鍛冶屋町)があった。町人組織が形成され、様々な町場が成立していたことがうかがえる。

参考文献

*1:当時は「府中守護所」と呼ばれた。