戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

川舟座 かわふね ざ

 室町・戦国期の船仲間組織。河野屋座とともに、敦賀を中心に水運など流通に深く関った。敦賀の港湾業務も管理した。

川舟座の構成

 永禄十一年(1568)五月の「河舟中」の言上状には、「嶋郷河舟惣中」とある。嶋郷*1出身の舟人たちによって、構成されていたことが分かる。

商業・流通の特権

  文亀元年(1501)九月、朝倉氏は川舟座に対し、塩・合物(塩干魚の類)の公事銭を制定した。このときの書状によれば、川舟座は河野屋座とともに、丹後や若狭へ出かけて商売し、運送業にも携わっていた。また他国からの船頭に対しては、公事銭の徴収も請け負っていた。つまり、川舟座と河野屋座は、敦賀の商業・流通を統轄していた。

 天文元年(1531)十一月の敦賀郡司の外代・前波吉長の奉書にも、他国および敦賀の商人が、両座を通して商いをすることが定められていたことが示されている。当時、両座以外の海路での商売行為が禁じられていた。

 さらに天文三年(1534)二月の前波吉長下知状から、特に越前の諸浦での「入買」(買い付け)は、川舟座のみに認められた特権であったことが分かる。

朝倉氏滅亡後の変化

  朝倉氏滅亡後においても、天正五年(1577)に敦賀郡領主・武藤舜秀は「川船衆中」に対して敦賀において以前のように商買する事を認めている。

 しかし、それは完全な保障ではなかった。天正九年(1581)には、羽柴秀吉長浜町人の商売船二隻に若狭・丹後での活動を保障している。川舟座の権益独占は、崩れていたことがうかがえる。

参考文献

  • 宇佐美隆之 「第二部第三章 問の展開」 (『日本中世の流通と商業』 吉川弘文館 1999)

*1:笙ノ川西側の敦賀郡野坂荘内