戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

金津 かなづ

 越前と加賀を結ぶ北国街道と、竹田川の水運の交点に位置した市町。中世、興福寺大乗院の荘園である坪江・川口荘の中心として、また宿場町としても栄えた。市場集落は、竹田川北岸の台地に鎮座する春日社を中心に形成されたとみられている。

鎌倉末期の金津

 鎌倉末期の正和四年(1315)、金津八日市で徴発された人夫が金津神宮護国寺、新春日社の造営に寄進されている。すでに八日市と呼ばれる三斎市があったことが分かる。金津周辺には、他にも「六日市」や「十日市」の地名が残されている。

 金津は、竹田川をはさんで存在する坪江、川口の両荘園の経済を担う中心的市場として発達したものと思われる。

 また、同じく鎌倉末期の史料に「金津宿 在家廿二宇」と記されている。宿場町も形成されていたことが分かる。

室町期・戦国期の金津

 『大乗院寺社雑事記』の長禄四年(1460)九月十二条から、金津八日市には「猿屋」「藤屋」、坂下の「はりや」などの屋号を持った商人がいたことが知られる。文明十年(1478)、八日市の代官に杉若藤左衛門が任命されている。

 文明十二年(1480)、朝倉氏と甲斐氏の合戦で「金津町屋」は焼失してしまう。その後は竹田川南岸に、朝倉氏譜代の溝江氏が館を構えた。金津の市町としての繁栄とともに、加賀をにらむ要衝としての機能に着目したものと思われる。

参考文献

  • 小泉義博 「第五章 中世後期の経済と都市 第一節 産業・交通の発展 二 交通路の発達と市・町の形成」( 『福井県史 通史編2』 1995)