越前を南北に貫く「海道」(北国街道)沿いに位置する宿場町。中世、陸運の拠点として栄えた。町内に水落神明社があり、その門前町的性格も持っていたとみられる。
陸上交通の拠点
延徳三年(1491)の「冷泉為広卿越後下向記」には、水落について「水オチ 里・野 杜神明、馬市」と記されている。水落には当時、馬市が立っていたことが分かる。水落は、陸上交通の拠点であった。
街道の要所である水落には、馬借*1や車借*2など陸運業者も居住していた。天正十一年(1583)五月二十五日の「堤有誠書下状」には、「当町馬借ナラビニ市之儀」とあり、水落の活況がうかがえる。
町の支配と町衆
水落では町衆が組織され、町の運営にあたっていた。町衆は神明社の「をこない(行)」や、「やま(山車)」などの祭礼も取り仕切っていた。これらの中止を決定した町衆に対し、朝倉氏がその撤回を求めたこともある。
また大永元年(1521)、水落の祝権大夫が朝倉氏の代官・小島景増に、浅水川に架ける「金橋」(浅水橋)建設のための出銭の免除を訴えて、認められている。これは、出銭を命じられた水落町衆が、町内での出銭配分を取り決めた際、神明社の祝屋敷にも割り当てたためであった。朝倉氏の町支配も、町衆を介して行われたたこと分かる。