戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

相良湊 さがら みなと

 駿河湾の西南岸に位置する港町。遠江国東岸の要港として栄えたと思われる。

掛川の外港

 永禄十二年(1569)、武田氏の侵攻で掛川城が落城。今川氏真は、北条領に逃れた。その逃走経路について『浜松御在城記』は、「掛川より相良程近候得共、敵地に近故、廻られ候哉」としている。掛川の最寄の港が、相良であったことがわかる。結局、氏真は懸塚から出航したが、基本的には相良湊が掛川の外港であり、遠江東部の要港であったことがうかがえる。

榛原郡の港

 相良湊について、直接触れている史料は少ない。天文十四年(1545)正月、今川義元が、地頭・高橋左近将監から竜源寺に寄進された榛原郡新庄地頭方堀野(現・相良町)に関して行った安堵の項目に、「新船壱艘」について諸役を免除することが記されている。この新船の所属港が、同じ庄内の相良湊であったと考えられている。

平田寺の寺領湊

 また永禄四年(1561)三月、今川氏真は相良庄内の平田寺に対して寺領安堵状を発給している。これにより「寺領湊」での、「廻船諸商買船役」の徴収権、及び「野菜船」一艘船方に対する諸役の免除を認めている。

 平田寺の寺領は相良湊の周辺にあり、「寺領湊」の中に相良湊が含まれていた可能性が高い。そうであるとすれば、戦国期の相良湊には、多くの商船が商いのために入港していたことが推測される。

参考文献