戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

四日市庭 よっかいちば

 北伊勢三重郡三滝川河口付近に位置したとみられる港町。中世後期、北伊勢の主要港湾の一つとして栄えた。三重郡の南の鈴鹿郡には三日市や二日市があったことが確認されている。四日市はこのような定期市から、しだいに常設店舗がならぶ町場を形成していったと推定される。

新たな海関

 文明五年(1473)六月、伊勢外宮は長野氏と北畠氏に対し庁宣を出し、新警固(海関*1)の設置に抗議した。この新警固の設置された場所として矢野浦や安濃津、若松浦などとともに「四日市庭浦」がみえる。これが四日市庭の史料上の初見とされる。

 新警固が設置されていることからみて、四日市庭は当時既に北伊勢における水運の要港となっていたと思われる。

大湊との水運

 『船々聚銭帳』は永禄八年(1565)の十一月から十二月と翌年三月から四月にかけての大湊への入港船記録であるが、四日市庭船は7艘の入港が確認される。船銭(入港税)の額から、四日市庭船は中・小型船主体とみられる。また天正二年(1574)八月の『船々取日記』にも、1艘の四日市庭船が確認される。

 四日市庭船が具体的に何を運んでいたのかは不明である。しかし四日市庭には近江四本商人の足子(行商に従事する下層商人)が住んでいたことから、彼らが京都方面に運ぶ芋麻布や紙、木綿、陶器、塩などが集められていたと思われる。

参考文献

*1:守護が正式に警固料を徴収できる本警固に対し、非公式に設定された警固=海関