戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

日永 ひなが

 四日市の南、天白川が伊勢湾に注ぐやや手前の沖積平野に位置した市場町東海道も通過する交通の要衝にあり、 多くの人や物が往来した。昭和四年の地図で、日永四丁目付近の旧街道沿いに「南市場」の地名があったことが確認できる。

日永の寺院

 天白川を挟んだ北側の街道沿いには、天正三年(1575)に滝川一益から寺領の寄進と諸役免除を受けている興正寺がある。このときの史料には、四至について「東限寺通町、北者 順礼堂屋敷、如来寺屋敷」とある。寺院がまとまっていた様子がうかがえる。

紙流通の拠点

 日永での商業活動を示す史料に、貞和四年(1348)の「善教訴状案」がある。これは、紙市座御幣役の徴収権を巡って日永住人の唯智存が訴えられた史料で、14世紀前半に日永に紙座が存在していたことがわかる。

 その後、寛正四年(1463)三月に、日永紙屋が伊勢神宮門前町・山田の住人に対する債権の取立てとして、内宮上米分を差し押さえている史料もある。これらのことから、日永は伊勢北部における紙流通の拠点の一つであったと考えられる。

近江商人「中屋」

 また永禄四年(1561)頃の「丹生川太郎兵衛書状」には、近江・得珍保の足子商人(行商に従事する下層商人)として「日長ニ 中屋」がみえる。屋号を持つ人物が日永に居住していた。

人々の往来

 人々の往来も盛んだった。『大乗院寺社雑事記』には、「石さ衛門尉宗弘」なる人物が明応三年(1494)に美濃国から奈良への帰路、日永越を利用していることが見える。連歌師・宗長も大永七年(1527)三月、神戸から日永を経由して桑名へ向かったことが知られている。

 さらに、神宮文庫の『輯古帖』の「某書状断簡」には、「仍太神宮御橋之儀ニよりて、桑名から日永まて、諸関六十ヶ所、悉人別一銭つゝニ申さため候て、札を立候て罷通申候、」とある。年不詳ながらも当時の往来の多さを示している。

参考文献