渡川河口付近にあった伊勢海に突き出す小さな半島(松ヶ崎)に形成された港町。伊勢海水運の拠点とともに参宮街道の渡河点として水陸交通の要衝を担った。
平安期からの港町
松崎浦と同一の港町とみられている。『玉葉』建暦元年(1211)六月廿八日条には、「斎宮寮保曾汲供御人」の争論が記されており、鎌倉初期には細汲の海民集団が斎宮に海産物を貢献する供御人として存在していたことが窺える。
また暦応二年(1339)の文書から、「大船」を含む庄民(醍醐寺領曽禰庄)の船が停泊する場でもあったことが知られる。早くから港として機能していた。
伊勢海水運の港
戦国期、「大湊老若収支帳」の永禄三年(1560)十二月廿一日に「細汲へ立使舟八艘之時、取かへ」とあり、「船々聚銭帳」の永禄八年十一月九日にも細汲船の大湊入港が記されている。
細汲は伊勢海の中心的都市・大湊と深い関わりを持った港町であった。また、『信長公記』天正二年七月十五日条にも、織田氏が長島攻撃のために船を徴発した港の一つとして、桑名や安濃津、楠などともに「ほそくみ」がみえる。
松ヶ島城の城下町
永禄年間、北畠氏により松ヶ島城が築城され、天正八年(1580)には同城が織田信雄の居城となった。これにより細汲は、伊勢国の政治的中心を担う城下町(松ヶ島)の一角に組み込まれたとみられる。
同年、信雄は「松ヶ島蔵方中」に対し、質物に関する規定を出している。松ヶ島城下町が、領主と密着した有力な金融業者が活動する地域経済の中心にもなっていることがうかがえる。