戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

今井 いまい

 南大和地方、現在の奈良県橿原市にあった寺内町。天文年間に建設された真宗道場(後の称念寺)を中心に形成された。大坂方面と南大和の吉野を結ぶ交通の要衝にある栄えた町場であったとみられる。また周囲に環濠をめぐらした要塞都市でもあり、南大和における本願寺勢力の拠点となった。

大坂と吉野を結ぶ要衝

 蓮如の子の実従の日記『私心記』によれば、天文二十二年(1553)閏正月、実従は上市飯貝(奈良県吉野町)本善寺の実孝の葬儀に参列するために大坂を発ち、今井まで下向して泊っている。翌朝、今井を発つが「三郎道場ニテ朝勤申候」とある。この時、既に今井に道場があったことが確認できる。

 実従は同年三月にも今井にて豊寿に夕飯を振舞われ、豊寿門徒中より三十疋の礼を受けている。また永禄三年(1560)も、吉野へ行く途中に今井にて泊まり、今井兵部の厚待をうけている(『私心記』)。

 これらのことから、今井は本願寺の本拠である大坂と深いつながりを持っていたことがうかがえる。また大坂と吉野を往還する際の宿泊所となっていることから、真宗の拠点である両地域を結ぶ交通路の要衝でもあったとみられる。

寺内町の形成

 元亀元年(1570)、本願寺勢が織田氏と対決に至ったことで、前者の拠点である今井は防衛のために要塞化をすすめていった。

 江戸期に記された『大和軍記』には、「兵部」という一向宗の坊主が「四町四方ニ堀ヲ堀リ廻シ、土手ヲ築キ、内ニ町割ヲ致シ、方々ヨリ人ヲ集メ、家ヲ作ラセ、国中ヘノ商等イタサセ、又ハ牢人ヲ呼集メ置」いたという記事がある。領主である今井兵部が、周囲に環濠をめぐらせた寺内町を形成し、人々を集め、国中への商売を行わせていたことことが分かる。現在も今井町の周囲には、環濠の一部が現存している。

織田氏との和議と非武装化

 天正三年(1575)十一月、前月に成立した織田氏本願寺の和議を受けて、今井も織田氏との和議に至る。同月九日付で織田信長から「今井郷惣中」に対して、赦免の意向や「大坂同前」の特権を認めること、陣取・乱妨狼藉を停止する旨を記した朱印状が出されている。

 この翌年とみられる時期に「今井惣郷中」に対して明智光秀が出した書状には、「去年任被仰出旨、土居構崩之、国次准土民由、尤神妙候」とある。このことから、和議の条件には防衛設備の破却と、郷民の土民化(武装放棄)もあったことがうかがえる。

 今井は武装都市としての性格を否定され、織田氏支配下の都市として、大きな転換を迎えることになった。

今井の商工業者

 称念寺に残る文禄四年(1595)の検地帳によれば、当時の今井には東・南・西・北・同北・新・今・同今の八つの町が存在していた。屋敷筆数は522筆あり、屋敷の登録人は255名。

 屋号のある登録人の中に「柳屋」がいる。『多門院日記』にみえる今井柳屋彦三郎と同一人物とみられ、「かわし」によって米穀の取引を行っていた。そのほか登録人には、「布屋」(木綿を扱っていたとみられる)、「油屋」(油を扱っていたとみられる)、「悪銭屋」(金融業者か)などの商人、「わくや」、「カベヌリ」などの職人層の名がみられる。

今井の米商人

 今井で米穀の取引を行っていた商人としては、与七郎やツルヤ藤四郎、ナヘヤ、その他に八条屋堯春らの存在が『多門院日記』から確認できる。彼らは上記の柳屋同様にかわしによって米穀取引を行っていた。特にツルヤ藤四郎などは吉野宝泉寺坊のものを扱っており、遠隔地商業が盛んであったことを示している。

 また奈良には今井屋なるものがおり、「米かわし」と「かわし」によって米を取り扱っていた。今井の出身者か、今井商人と取引する商人とみられる。

 今井の商人は、奈良から吉野にかけての米の大規模取引を行っていたといえる。大坂と吉野という本願寺の拠点を結ぶ今井は、本願寺の経済流通路においても重要拠点であったと考えられる。

参考文献

  • 橋詰茂「寺内町勢力との対決」(『瀬戸内海地域社会と織田権力』) 思文閣出版 2007