戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

黒瀬松葉 くろせ まつば

 伊予国南部・宇和郡の宇和盆地東南の丘陵麓に位置する黒瀬城の城下町。戦国期、宇和郡を代表する領主であった松葉西園寺氏が松葉城から黒瀬城に移った際、新たな本拠となった。

黒瀬城下への移転

  松葉西園寺氏は元来、少し北の松葉城を本拠として宇和郡最大の農業生産地である宇和盆地を支配していた。その城下集落は「松葉町」と呼ばれていた。

 『宇和旧記』によると、松葉城は周囲の砦との連携がとりずらく、九州勢(豊後大友氏)の侵攻も頻繁になったため、黒瀬城へと移った。松葉町も黒瀬城下となった鬼ヶ窪村の中央へと移転したという。移転時期は明らかではないが、天文年間(1532~55)頃と推定されている。

  「松葉町」という名からして、新旧の松葉には町場が形成されていたと推定される。宇和郡最大の領主である「黒瀬殿」(西園寺氏)の本拠として同氏の消費を支え、その勢力圏の経済の中心を担っていたと思われる。

『清良記』にみる黒瀬領民の活動

 北宇和郡土豪・土居清良を主人公とする『清良記』では、「金銀米銭十を貸て十六取」「黒瀬領内の有徳の者共五十九人より金銀米銭を借る」などと記されている。その他に質屋、酒屋、高利貸、博労、行商人らの活動がみられる。

 『清良記』には彼らが松葉で活動していたとは記していないが、彼らの活動に便利な市場を想定すれば、その拠点が松葉に置かれていた可能性は十分に高いと思われる。

参考文献

  • 愛媛県史 古代2・中世 』 第四章第二節  1984

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近世、黒瀬松葉を移転して形成された卯之町の町並み。

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卯之町の町並み①。

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卯之町の町並み②。

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光教寺への参道の入り口。

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光教寺付近から眺めた卯之町