戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ガルザル Gardar

 ノース人(スカンディナヴィア人)によるグリーンランド「東入植地」の中心的な居留地。現在のグリーンランド南部クレヤック市イガリク村にあった。

ノース人のグリーンランド入植

 天元五年(982)、「赤毛のエイリーク」というノース人が、殺人を犯してアイスランドを追放された。船で西に向かったエイリークは、グリーンランドに到達。寛和元年(985)に刑期を終えてアイスランドに帰還した後、開拓者を募ってグリーンランドへの入植を開始した。

 長保二年(1000)頃までには、グリーンランド南西部に「東入植地」、そこから北に約500キロメートルの場所に「西入植地」が成立した。最盛期には「東入植地」に約四千人、「西入植地」に約千人が暮らしたと推定されている。

「東入植地」

 「東入植地」では、最良の農場を擁し、司教座もあったカルザルが中心となった。同地の聖ニコラス大聖堂は、奥行が32メートル、間口が16メートルある。これは、グリーンランドの十倍の人口を擁するアイスランドの二つの大聖堂と同程度の規模とされる。

 カルザルのほかには、「赤毛のエイリーク」が農場を建設したというブラッタフリーズ、優良な農場だったヴァトナハヴェルフィ、フヴァルセーなどがあり、各地に教会も設立されていた。

グリーンランドでの生活

 グリーンランドへ入植したノース人たちは、農場で羊や山羊を飼育した。食肉としてよりも、おもに搾乳のために利用された。牛もわずかに飼っていたが、祝い事のごちそうや金持ち向けだったとみられている。

 当時のゴミ捨て場の堆積物の分析によれば、ノース人たちは、グリーンランド入植後間もなく大規模なアザラシ猟を始めている。またトナカイ猟やセイウチ猟も始まった。

 他に小型の哺乳動物(特にノウサギ)、海鳥、ライチョウ、ハクチョウ、ケワタガモ、イガイ、クジラ*1などからも、野生の肉を手に入れていたとみられる。

北米大陸との交流

 ノース人はグリーンランドへの入植して数年後には、さらに西方の海に探検に向かい、現在の北米大陸に到達。その過程でヘッルランド(現在のカナダ北極圏のバフィン島東岸)、マルクランド(バフィン島南にあるラブラドル半島)、そしてヴィンランドを「発見」した。ヴィンランドからグリーンランドに戻る船には、木材、ブドウ、動物の毛皮など貴重な荷物が載っていた。

 ノース人は北米大陸への入植を試みるも、短期間で撤退することになった。一方で、その後もグリーンランドのノース人たちは、マルクランドと呼ばれたラブラドル半島を訪れていた。カナダ北極圏のアメリカ先住民の遺跡から、ノルウェー産の遺物(銅、鉄、ヤギの毛を紡いだ糸など)が、わずかに見つかっている。

 また治暦元年(1065)から承暦四年(1080)の間にノルウェーで鋳造された銀貨が、ラブラドル半島から南に数百キロメートル下ったメイン州の海岸にあるアメリカ先住民の居住地跡で発見されている。ラブラドル半島にノース人がもたらした銀貨が、アメリカ先住民の交易網によってメイン州に到達したと考えられる。

 北米大陸との往来は、もう少し後の時代まで続いた。貞和三年(1347)、18名の乗組員を載せたグリーンランドの船が、マルクランドから戻る航海中、アイスランドに漂着したことが、同地の年代記にみえる。

ヨーロッパとの交易

 グリーンランドとの交易におけるヨーロッパ側の港は、ノルウェーのベルゲンやニーダロス(トロンヘイム)だった。航海は一週間以上を要する危険なものであり、途中で難破や消息不明となる船も多かったらしい。

 弘長元年(1261)、グリーンランドノルウェー王国統治権を認め、この見返りにノルウェーから年間2隻の船をグリーンランドに送り出させる約束を取り付けた。これによりグリーンランドとの交易は、ノルウェー王室が独占することになった。

 ヨーロッパからグリーンランドには、生活必需品である鉄や木材、タール*2が輸入された。鐘やステンドグラスなどの教会用品、錫製品や陶器、ガラス製品などの贅沢品も、ヨーロッパから運ばれた。

 グリーンランドからは、山羊や羊、アザラシの皮が輸出された。セイウチの牙、セイウチの皮、生きたホッキョクグマもしくはその毛皮、イッカクの牙、生きたシロハヤブサなど、北極圏産の動物に由来する品物も珍重された。特にセイウチの牙は、当時のヨーロッパで入手が困難になっていた象牙の代替品として、需要があった。

環境の変化

 アイスランド北西の海底で採取された堆積物コアの解析から、建長二年(1250)頃より気候が「小氷期」に入ったことが示されている。気温が低下し、天候は不順になった。グリーンランドの農場では、少量の草でも生きられる羊と山羊の飼育に集中していったことが、ゴミ捨て場で見つかった骨から推測されている。

 ヨーロッパとの主要な交易品であったセイウチの牙の需要も、減少傾向にあった。イスラム勢力との緊張が緩和し、アジアや東アフリカの象牙がヨーロッパに入るようになっていた。そもそも13世紀初頭ごろから、装飾品の素材としての象牙の人気も凋落していたという。

 さらに14世紀中ごろ、ヨーロッパでは黒死病(ペスト)が猛威を振るう。本国ノルウェーでは、実に人口の約60%が失われたとされる。応安二年(1369)以降、ノルウェー王国グリーンランドへ交易船を出さなくなった。

「西入植地」の崩壊

 14世紀中ごろ、グリーンランドの「西入植地」が崩壊した。ノルウェーからガルザルに派遣された司祭イヴァール・バルダルソンの貞治元年(1362)頃の報告によれば、「西入植地」は既に「スクレ―リング」の支配下にあったとされる*3。「スクレ―リング」とは「愚劣な民」を意味し、ここではグリーンランド北方に住んでいたチューレ族(イヌイットの一族)を指すとみられる。

 「西入植地」の遺跡の最上層からは、通常は狩りの対象としない小動物の骨や、生後間もないウシや羊の骨が出土している。ナイフの切り傷のついた、大型狩猟犬の骨格もみつかっている。最後の住民たちは、育てるべき家畜の新生児や、狩猟に必須の犬まで、殺して食べなければならない状況に陥っていたことがうかがえる。

「東入植地」の終焉

 北方のチューレ族はさらに南下し、「東入植地」を襲うようになった。アイスランドの康暦元年(1379)の年譜によれば、グリーンランド人を襲った「スクレ―リング」が18名を殺害し、少年2名と女婢1名を捕らえて奴隷としたという。最盛期4千人規模の人口からすれば、甚大な被害だった。チューレ族の襲撃は、その後も続いた。

 ノルウェー王勅許の交易船は応安元年(1368)を最後に途絶えたが、以後も民間の船はグリーンランドに航海していた。記録上では永徳元年(1381)、永徳二年(1382)、至徳二年(1385)、応永十三年(1406)の四件が確認される*4

 応永十三年(1406)の船の船長トルステン・オラフソンは、4年近くグリーンランドに滞在した後、ノルウェーに戻った。オラフソンは、滞在中の応永十五年(1408)九月、地元のシーグリズ・ビョルンスドッティルという娘と結婚。フヴァルセーの教会で式を挙げた。

 これが、ノルウェーグリーンランドに関する明確な文書記録の最後となった。その後、15世紀中ごろまでには、ガルザルを含む「東入植地」は消滅したものと推定されている。

その後のグリーンランド

 16世紀後半、探検家マーティン・フロビッシャーとジョン・デイヴィスがグリーンランドに上陸した。彼らは現地のイヌイットと交易を試み、何人かを連れ去った。慶長十二年(1607)、デンマークノルウェーの合同遠征隊が、「東入植地」を訪ねる特命を帯びて出港した。しかしグリーンランド東海岸ばかりを探し回ったので、その痕跡を見つけることはできなかった。

 享保六年(1721)、ノルウェーのルーテル派宣教師ハンス・エーゲデは、イヌイットを改宗させるためグリーンランドに赴いた。そこでイヌイットから、「西入植地」のノース人農場の廃墟を見せてもらう。享保八年(1723)、エーゲデはイヌイットから、グリーンランド南西岸にあるもっと大きな廃墟に案内された。フヴァルセーの教会跡も、そこにあった。

参考文献

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フヴァルセーの聖堂跡

*1:ノース人の遺跡から銛などの捕鯨用の道具は見つかっていない。ときおり浜に打ち上げらえたものを食用にしていたと推定されている。

*2:潤滑剤や木の防腐剤として使われた。

*3:司祭イヴァール・バルダルソンは、ガルザルからの遠征団に加わり、チューレ族を掃討すべく「西入植地」に赴いた。しかし到着してみると、キリスト教徒の姿も邪教の民の姿もなかったという。

*4:いずれの船長も、本来の目的地はアイスランドだったが、気象条件のせいでグリーンランドに接岸せざるを得なかったと申し立てている。グリーンランドとの交易は、ノルウェー王の独占となっており、これを掻い潜る方便だった可能性もある。