豊後国国東半島北岸の入江に臨む港町。海上勢力・岐部氏の拠点でもあった。
海上勢力・岐部氏の本拠
中世、岐部は岐部氏の本拠だった。岐部氏は大友氏に属し、海上活動に従事した。永正十年(1513)、大友氏から富来氏らとともに渡唐船の日向国外浦への抑留を命じられている。他にも渡唐船の水先案内や警固を担当したりと、豊後周辺海域での活発な活動がみられる。後年、中東を陸路横断してエルサレム、ローマに至ったペトロ岐部も、岐部氏の出身といわれる。
朝鮮半島との通交
文明三年(1471)、朝鮮の申淑舟が著した『海東諸国記』によると、朝鮮に通行した日本の土豪の中に「豊後州代官木部山城守茂美」という名が見える。「木部」とは岐部のことであるとみられる。偽使の可能性を考慮しても、岐部氏が朝鮮に使者を派遣し得る勢力であったことがうかがえる。
これ以前、永享元年(1429)に訪日した朝鮮通信使・朴瑞生は、倭寇に関する報告の中で「豊後州海辺の諸賊」について触れている。おそらく岐部や周辺の富来、櫛来などの勢力が倭寇として朝鮮に出没していたのだろう。15世紀、岐部氏が属する大友氏は朝鮮貿易を行っていた。岐部は水運基地として、その一端を担ったと思われる。
鉄の生産
また岐部氏は大友氏への贈り物として、太刀や鉄素材と思われる「切金」などを用いている。岐部とその周辺が、鉄とその製品の産地であったことがうかがえる。豊後では「豊後刀」として知られる刀剣の生産が盛んであった。岐部は、府内近辺の高田などの鍛冶場に供給される鉄の積出しでも栄えたと思われる。